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How wonderful , So beautiful

なんて、すばらしいのか。
なんと、美しいのか。

複眼の両眼で、世界を眺めながら、そう思っていた。
そして、世界を翅色にして飛翔するわたしもまた美しい、ということを、わたしは知っていた。
思えば、すこし、うぬぼれていたとも思う。



わたしは蝶だった。

繊細な手足、触覚、渦まく口吻、透明な複眼、青緑と漆黒を基調とした色の翅。
軽やかな飛翔、花をも華やがせる佇まい。
生まれもったもの……ひとりでにそうある本性……を誇るなど、誇らしくないこととも思うけれど、そのときのわたしは、わたしの美しさが誇りだった。

地や葉を這う青虫……自分がそうであったことはおぼろげに憶えていたけれど、そのころに、なにを思い、どう生きていたのかは、思い出せなかった。
戻れないけれど、戻りたくないとも、どこかで思っていた。

なぜなら、蝶として羽化したときの歓びが、わたしがそれまでに生きて感じたうちで、いちばんの幸福だったから。
羽化したての、わたしの大きな眼に映された世界は、あまりに、あまりに、圧倒的に美しかったのだ。
真っ先に、わたしのなかへ飛びこんできたのは、光と、光の浮かび上がらせる、無数の鮮烈な色彩だった。

なんて、すばらしいのか。
なんと、美しいのか。
そう、思った。感嘆ばかりだった。
その思いと、世界の美しさだけで、体中が占められた。
これほどの至福があるだろうか。

透明な球体であるわたしの眼には、ほぼ全方向から世界が映りこんでいた。
そのため、わたしには、自分の背の翅もみえていた。
わたしの翅の翅色は、なんと、わたしのみている世界そのものの色だった。
この美しい世界が、そのまま、わたしの翅色になっていることを、わたしは識った。

わたしは世界の渦中に在りながら、世界を隈なくまなざす者であり、同時に、世界とはわたしだった。
世界はわたし、わたしは世界、だった。

昼は、花から花へ蜜を吸ってまわった。
蝶は、ほかの蝶と戯れるように、あるいは花を奪い合うように飛び回っていると思われるかもしれない。
けれども、わたしたちは、ただ、気のおもむくままに舞うだけで、群れることもなければ、競うこともなかった。

夜は、木の枝にとまり、葉陰で休んだ。
仲間たちも、それぞれに、おなじように休んでいた。
おのおのに世界を映す仲間たちの翅色も、もちろん、胸がすくくらいに美しかった。
そして、それらをも含め、すべてを映すわたしの翅色もまた、この上なく美しかった。
また、夜には、月や星の光にこそ、翅色は養われ、育くまれていることも感じた。

あるとき、わたしは、自分が花の花粉を運び、蒔いていたことを知った。
そうしようとして、していたのではなかったけれど、気づかぬまま、ひとりでにそうなっていた。
気づいたのは、わたしのひらめくような羽ばたきで、花粉が舞い、日の光にきらきらと、きらめくのをみたからだった。
光の粉のきらめきは、ほんとうに、きらきらしかった。
まるで、世界に、魔法をかけるかのようだった。

また、わたしは、自分の翅の鱗粉が、きらめきながら舞っているのもみた。
やはり、息をのむほど美しかった。
わたしは、美しい光の粉を、ひとりでに、魔法のように、世界へふりまいていたのだ。
わたしとは光の粉……光の粒子でもあった。
鱗粉の名残が顕すわたしの飛跡も、うっとりするほど完璧だった。
わたしも世界の美しさに寄与しているのだ、と識った。



死は、唐突に訪れた。
死の瞬間、色彩が爆発した……この言葉以外で形容するのは難しいのだ。
あらゆる色が鮮やかに、ありありと迸った。
光と闇も同時に烈しく、あかあかと在った。

わたしは、人間の赤子の左手の掌に握りつぶされ、息絶えた。
そのとき、わたしは人間の心を識り、なぜか、人間に憧れた。

美しさに目を瞠り、心震わせると同時に、それを握りつぶしてもしまえる人間。
死をももたらすことができ、それを識りつつ生きている人間。

なんて、すさまじいのか。
なんと、いとおしいのか。

死に際しては、痛みも苦しみもなかった。
死にたいする、何故や是非の問いもなかった。
そもそも、いのちたるものは、そういうことを問えないものだ。
人間への恨みつらみもなかった、ましてや赤子、みどり児だ。

むしろ、わたしは、底知れぬ魅惑を有する人間に憧れたのだった。
憧れて憧れてさまよい、とうとう、わたしより、より人間に近いと思われる、花の精……あるいは天使……に出会うことができた。

花の精……あるいは天使は、言った。
「わたしは朽ちてすら花、あなたも死してさえ蝶。あなたはわたし。蝶は、花の化身であり、守りびと」と。

「そう、わたしは花でもあり、花はわたしでもあった」と思い出した。
花は、わたしに、無量に、惜しみなく、その蜜を、香りを、美しさを与えてくれた。
わたしは花に愛され、花を愛していた。

「あぁ、花に会いたい!」と思ったら、うつむいて咲く花が、不意に頭上から語りかけていた。
「共に咲こう、共に笑もう。笑舞おう」と。

「もちろん!」と、迷いなく応えたものの、
「でも、もう、わたしには翅も体もないのに、どうやって?」と思ったら、つぎには鳩が、上空から現れた。
そして、くちばしについばんでいた青虫を、そっと、わたしの前においた。

「あぁ、これはかつてのわたしだ。蝶のわたしと比べると美しくはない」と思った。
しかし、青虫の体の内側には……それまでは気づきもしなかったのだけれど……鮮やかな色彩の、爆発か、渦のようなものが、みてとれた。

ハッとした。
美しくない、なんてことは、なかった。
醜くも在れる、美醜を超えた、一つの美しいものだった。
すさまじく、いとおしく、すばらしく、美しかった。

不意に、青虫だったときの記憶が過った。
それは、一瞬のことだったけれど、一瞬でも十分すぎるほど、ありありと、体感がよみがえった。

青虫のわたしは、全身、感覚器官だった。
体中で、世界を感じていた。
世界のあらゆる色彩が、わたしの身のうちに、しみとおってきていた。
やはり、世界はわたし、わたしは世界、だった。

わたしは、世界の色彩を、自分のなかだけに、とどめてはおけなかった。
こんなにも、すばらしく、美しく、驚嘆ばかりなのだ。
顕したかった、応えたかった、分かちたかった、讃えたかった。
与したかった。
それは、自然の思いだった。
だから、青虫は蝶になるのだ、すべて、忘れて。

「ここがはじまり」と、鳩は言った。
そして、鳩は、自身の羽毛のうちで、とりわけふわふわとしてやわらかな白い羽根を、わたしにくれた。
光をもらったように思えた。



鳩のくれた羽根と光のなかで……
風をはらむ羽根に、さやさやとあらわれ……
光に包まれつつ同時に、透かされるようにして……省みていた。

蝶のわたしは、世界とわれの美しさに、目が眩んではいなかったか。
空を翔けるばかりで、はじまりの地べたを這いつくばる青虫、本性である花、そもそもの土なるものを、みすごしてはいなかったか。

青虫のわたしから託されたものを生きられたか。
生きた、それは誇れる。

わたしはまた蝶に……もしくは花に、笑舞う者に、飛翔する者に、守りびとに、一つの美しいものに、爆発する色彩に、地を這う者に、青虫に、あるいは、人間に生まれるのだろうか。
わからない、わからないけれど、
「なんて、すばらしいのか。なんと、美しいのか」と思えるわたし……
そう観じ、同時に、そう在るわたしを生きるだろう。
いまにも、そう在れるから。

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