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深海の魚たち

深海の魚たちの交信は、天上の星たちのそれと同じでした。
天を仰いだことのない者たちが、なぜ星の言葉を知り得たか?
それは、みなそこだからです。
降りつむ澱に「たからもの」が眠るのです。「たからもの」とは、他からもの、高来ものです。

深海の魚たちはみな、長生きで静謐で賢明でした。
中でも長けた長老が、伝え話をしておりました。

「深く潜っておいでなよ。ここには智恵があるのだからね。天に憧れ、目指しても、智恵は薄まるだけなのだ。さすれば、われらは生きられぬ。息を……自らの心を忘れ……心を亡くし……もがき苦しむ」

長老の話を、息をも潜めて聴いていた魚たちは、息を飲み、息を詰まらせ、そののちに、一斉に身震いしました。その苦しみを、わがことのように、身の内に感じることができたのです。
なぜなら、彼らはみな、深く知る者でありましたから。

また、長老は、こんな話もしておりました。

「なんでも、われらの層より天に近い水域に、生まれながらに、一度も群れたことのない鯨が、一頭いるそうな。
われらとはたがう音だが、彼もまた、星の言葉の担い手だ。ただ彼は、たったひとりで、星の言葉を守り抜く。その孤独、癒えぬ孤独だ。彼は、まみえぬ仲間を探すため、つねに呼びかけ、潮流に乗りながら、旅を続けているという」

あたりは、しん、となりました。みな、神妙な顔をして、鯨の孤独に思いをはせ、潮のうねりに心を寄せました。切に切なる鯨の声が、遠く聴こえるようでした。

長老の話は、さらに続いていきました。

「また、水界と天界との間にも界があり、そこには、かの《昼》……燃ゆる星の統べる時間があるそうな。その星は《日》と呼ばれるという」

「水界と天界の間の界……地界……で、とりわけ智恵のある者は、《ふくろう》と呼ばれる《鳥》であり、彼らは《昼》に対しての《夜》を、より好むという。彼らも、われらみなそこの者たちと同様に、星の言葉のうつわである。
ひそかと云われるが、隠れるでなく隠すでもない。隠されてもいない。つつましく暮らす者だ。なんでも彼らは、彼らの聡明な《眼》のなかに、真のみを映すという」

ふいに、長老の話はやみました。

みなそこに身を低くする魚たち。たいていは、どんなことでも知っていました。悲痛な嘆きと、慈しみ、その両方を……その両方の深みと重みを知っていました。

なぜならやはり、そこ……底には……澱があるからでした。澱のさなかであるからでした。そこには、どんな痛みも降り落ちておりましたから。
彼ら自らが傷み痛んだのではありません。ただ、痛みから何も知り得ぬことなど、なかったのです。

稀に、彼らのなかで、潜むことをやめ、昇れる者がありました。その者は《龍》と呼ばれる者でした。

龍のゆく先がいずこであるか、誰も知ることはありませんでした。龍自らが望みを以て昇るのか、はたまた召されて昇るのか、それも誰にも預かり知れぬことでした。
《登り龍》のあるときは突然の、瞬間のことでした。いつ起これるか、誰の理解も超えていました。

龍は、深海の智慧を携えて、身を賭して昇るのですが、そうと識る者は居ませんでした。

龍は異形の者でした。畏怖たる者でありました。
魚たちは殊、龍のことなら言上げをせず、より心の深層で、互いに、各々、思いを致しておりました。

龍の昇れるその一瞬の軌跡を仰ぎ、星の言葉を直に聴き、星の光を直に見る魚がありました。その稀なる魚が、いずれ龍なる者でした。
光をみたために《眼》があらわれ、それがしるしでもありました。龍の眼がひらかれるたび、《まなざし》の火が燃えました。

しかし、目の退化した深海の魚たちには、それを見ることはできませんでした。
とはいえ、見えなくても、そこはかとなく知るのです。なぜなら、彼らは深海の魚たちなのですから。

龍の眼に点る火は《昼》の日の化身であると解す者がおりました。《夜》の星灯りの分かたれたものと言う者もおりました。
ほんとうは、そのどちらでもありましたし、龍自らが焚く火でもありました。

目のない者たちのなかで、目のある龍は、もはや、群れることはありませんでした。

深海に坐し天上の音を聴す者……深海にも天上にも属さぬ龍は、かの鯨同様、たったひとりで、ほんとうのものを担い、いつかいづれか《登り龍》になるのです。

深海の魚たちは、澱に居り、澱を織り、龍の孤独の隣り合わせに、こればかりには自らの悲傷たる痛みをもって生きるのでした。

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