『急に具合が悪くなる』自分とラインを描いてくれる偶然の出会い
送って頂いたゲラを、数時間でのめり込むように読み終わり、ところどころ涙が止められず、オフィスの自席で嗚咽する変な会社員と化した。
『急に具合が悪くなる』(昌文社)。
読み終わった直後、この本で感じたことをどう言語化していいのか分からず、呆然とした。「ゲラありがとうございます、拝読しました」とLINEしたいのに、そのあとの言葉が続かない。
がんを患う哲学者・宮野真生子さんと、文化人類学者・磯野真穂さんの往復書簡。すごく濃密な〝魂〟のやりとりだった。引き込まれ過ぎて、だんだんこのキャッチボールに伴走しているような気持ちになってくる。テレビで観戦しているんじゃなくて、スタジアムでわぁわぁと熱気に包まれながら、時には緊張に張り詰めながら祈るような気持ちで観ているような。
ようやく感じたことを言語化しようと、このnoteで、印象に残ったところを抜き出して紹介したいと思う。
確実な「死」から未来を照らすやり方は…
『急に具合が悪くなる』の書簡が始まったのは2019年4月27日。病を抱えて生きるリスクや、医療の不確定性について思索を深めようと始まったそうだ。ただ、宮野さんのがんの病状は思わしくなく、言葉通り「急に具合が悪く」なっていく。
誰かと出会ってしまうことの意味、そのおそろしさ
なぜ、逃げないのか、そのなかで何を得てしまうのか、私と磯野さんは、折り合わされた細い糸をたぐるようにその出逢いの縁へとゆっくりと(ときに急ぎ足で)降りながら考えました
<宮野真生子「はじめに」より>
書簡のやりとりの序盤は、ワークショップの講師依頼を受けた宮野さんが「急に具合が悪くなる」と磯野さんへ打ち明けたことをきっかけに、「リスク」や治療を「選択する」ことについて考えていく。
みんな等しく「急に具合が悪くなる」かもしれないんだ。でも、目の前のことを生きている。
たしかに未来の死は確実ですが、なぜ、その未来の死を今から考えないといけないのでしょうか。それではまるで未来のために今を使うみたいじゃないですか。
<宮野真生子 第1便 急に具合が悪くなる>
このやりとりで、多発性骨髄腫を患う写真家・幡野広志さんがイベントで話していたことを思い出した。
「明日死んでも後悔しないように生きろ、ってよく言うけど、そんなのムリですよね」
わたしもそう思う。わたしたちは致死率100%の生き物で、誰しも「死」からは逃れられない。だけど、その未来だけに囚われたら、「どうせ死ぬんだから一緒だ」とか「後世の役に立たないと」とか思い詰めてしまいそう。人生がとても味気なく彩りのないものになるんじゃないか。
宮野さんは「死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、そのつどに変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまう」と指摘する。
治療を選択する患者の「しんどさ」
健康食品といった「代替医療」の存在についても議論は深まっていく。磯野さんは、医療人類学の祖のひとりアーサー・クラインマンの、「心身の不調を乗り越えようとするときの三つのセクター」を紹介する。
①民間セクター 家族、友人・知人(自分の日常)
②専門職セクター 保険診療の医療者
③民俗セクター 薬草や骨格のゆがみをなおすといった医療
<磯野真穂 3便 四連敗と代替医療>
がんの患者にとって、民俗セクターは何を与え、専門職セクターは何を与えなかったのか? 磯野さんは代替医療をめぐる問題は、エビデンス第一主義ではなく、希望と信頼の位相で話すべきである」とつづる。
宮野さんも「『正しい治療を選択しないといけない』と疲れ切ってしまう患者も多い」としたうえで、
一人で正しく選択するのだというプレッシャーをまず解除することで患者も医療者も楽になるのではないか
<宮野真生子 3便 四連敗と代替医療>
と応じる。そして、誰よりも自分の身体を見ている主治医は、自分にとって実は「①民間セクター」にいる存在なのだ、ということにも気づく。
身体や未来を「コントロール」したい欲求
これはダイエットにも言えることだな…と感じながら読んだのが4便。
自分のわからないもの、制御できない事柄をこの世界からできるだけ取り去りたい、というまさにコントロールの欲求です。不確定な未来ではなく、予測された先行きがほしい
<宮野真生子 4便 周造さん>
みんな「リスクのない未来を生きたい」と思っている。予測できる未来がほしい。タバコをやめてお酒を控えて、炭酸飲料や揚げ物をやめて、ダイエットに励んで……。それってまるで〝健康のため〟に生きているような。
でも、恋とか、のめり込む趣味とか研究とか、人には合理的に物事を判断できない何かが降りかかることがある。
私たちの生きる現実とは、この一瞬にたまたまさまざまな原因が重なり合って、「いま」が生まれ、新しい予想もしていなかった未来が展開してゆく
<宮野真生子 4便 周造さん>
宮野さんは大のカープファンだ(わたしと同じ!)。
どんなに準備して予測しても、イレギュラーや予測もしないホームランが起きるのが野球。そんなプレーに遭遇すると「現実」の「美しさ」を感じるそうだ。最終的に、現実は偶然に左右されるとしても、選手は努力と準備を怠らない。
なんであの人が? 原因がほしい私たち
わたしも、若くして病に倒れた方の話を聞いては、「なんであの人が病気に…」と思ってしまう。そういう意味で「発生した物事に対して原因と理由を求めているんだな」と痛感したのが第5便、不運と妖術。
この夜の出来事には何か必ず原因があり(中略)出来事の責任を特定の誰か/何かに帰することができる、という考え方は(中略)時として私たちを追いつめます。
<宮野真生子 5便 不運と妖術>
ただ、宮野さんは「なんで宮野なんだ」という「不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がする」と語る。本当に強い人なんだな、と思った。
わたしならこの〝不幸の物語〟に酔って、周りからのほしい言葉に溺れてしまうだろう。
「お大事に」「大丈夫?」が使えないとき
宮野さんと磯野さんの関係性の深さを感じたのが、率直に磯野さんが<「お大事に」が使えない>と打ち明けている7便。
どんな言葉であれば宮野さんを傷つけずにすむのか、そしてもっとわがままなことに、宮野さんを傷つけたという事実で私が傷を負うことを恐れるから
私の今の難しさは、宮野さんが会話の先に、どんな未来を見ているのかがつかめないことに起因します。その未来とは死に関わること
<磯野真穂 7便 「お大事に」が使えない>
哲学者・宮野真生子を全力で信頼して、もしかしたらデッドボールになるかもしれないと不安になりながらも直球を投げる磯野さん。
宮野さんは、同じく全力でこんな風に投げ返す。
病をもつ人とそれ以外の人の関係は(中略)それくらいの困惑ともどかしさを共有して、「今どうしよう」とそのつど問いかけるのがちょうどいい
予防的に何かを準備するのはどうしても「患者モード」の定型に沿うことになる
<宮野真生子 7便 「お大事に」が使えない>
そして、「2人が『いま向き合った』という感覚が病をもつ者の自信につながる」とも言う。
ラインを描く「軌跡」のやりとりだった
2人の「軌跡」は、ラインを描いていくことそのものだった、ということが分かる9便 世界を抜けてラインを描け!。
関係性を作り上げるとは(中略)運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身ぶりを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか
<磯野真穂 9便 世界を抜けてラインを描け!>
それに対して、宮野さんも正直な思いを書き上げる。
そもそも、「生きる」ってなんでしょうね。
自分が消えるしかできない点であることを認めるのは辛いです。どんなにラインが残ると言われても。
<宮野真生子 9便 世界を抜けてラインを描け!>
このあたりからどんどん涙で視界がにじむ。それは何度読み返しても同じだった。
魂の分け合いと思える存在との出会い
こんな風にお互いが本音で直球を投げ合える関係は、まさに「魂の分け合い」だった。それを深めていった10便 ほんとうに、具合が悪くなる。
その人が大切な存在になればなるほど、その人に「さようなら」をいう日の手ざわりがより確かになってゆく。
<磯野真穂 10便 ほんとうに、具合が悪くなる>
そして、磯野さんは、アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツの言葉を引用する。
「人は自らが紡ぎ出した意味の網の目の中で生きる動物である」
わたしもこの言葉、とっても好きだなぁ。
もし運命というものがあるのなら(中略)共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気である
<磯野真穂 10便 ほんとうに、具合が悪くなる>
踏み跡を刻もうと覚悟しあって、共にラインを描ける存在と出会えた、これって本当に幸せなことなんだろうなぁ。わたしにはそんな存在っているだろうか。
宮野さんも、その幸せを十分わかっていたんじゃないか、という10便の終わりを引用。
磯野さんは、この二か月間で、何に出会ったのでしょうか。もちろん、宮野真生子という訳のわからないガンもちの人間です。しかもその人間は、死という最上級の偶然(あるいは災厄と言ってもいいでしょう)まで連れてきてしまった。
「もうやめよう」と言えるタイミングはあったのに、それを引き受け、「共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」を発揮した磯野さん。
この世界がさまざまな偶然という出会いから、自分を見出し、新しい「始まり」が生まれてくることを知ることができます。
なんて世界は素晴らしいのだろう。
<宮野真生子 10便 ほんとうに、具合が悪くなる>
また涙で文字が見えなくなった。
大切な人を亡くした人へ、どう声をかけたら
ここからは個人的な思いを。わたしと著者の一人の磯野さんは3年ほど前、摂食障害をめぐるインタビューで出会った。
わたしは磯野さんをとても尊敬していて、話し出すと楽しくて止まらない間柄だと勝手に思っている。(「打ち合わせをしよう」とごはんの約束をしたのに、3時間以上、本題に触れずにそのまましゃべって笑って帰ってしまうような)
だから、この本の感想LINEをどう送るかとても悩んだ。自分の片割れとも感じる大切な人を亡くした人へ、どう声をかけたらいいのか分からなかったからだ。
「いなくなるのが宮野さんじゃなくて、私だったらよかったのかな」と吐露する磯野さんに、「そんなこと言わないでください」としか言えない自分がとてももどかしかった。
でも宮野さんが言っていた「病をもつ人とそうでない人との関わり」と同じなんだな、と今なら分かる。心に傷を負った人に対して、どんな言葉がいいのか悩みながら、「今どうしたらいいか」尋ねながら、向き合う。それって普段の友人関係でも、記者としてのインタビューでも同じことなんだろうな。
人との関わりには、マニュアルなんて存在しない。当たり前のことなんだけど、わたしにも人を励ませる強い言葉があればいいのに……と落ち込んだのは事実。でもないものは仕方ない、普通で、凡庸で、ふだんの自分の言葉で、関わっていくしかないんだから。
この本の中でも何度も触れられていた「偶然」。「なんで?許せない」と憤りたくなるほど理不尽な出来事を起こすこともあるけど、とんでもなく幸運な出会いを運んでくれることもある。
磯野さん・宮野さん、ふたりの全力のやりとりに出会えたこと。わたしもこの偶然には感謝したいな。
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