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どうにもならないこころ

深夜1時30分。眠れなくてTwitterを開く。Twitterを開くからますます眠れなくなるのだけど、しょうがない、寂しいのだから。

ぽつ、ぽつ、と人がいる。しかしもう夜、みんなどんどん灯りを消していく。


ぼくはとんでもなく寂しくて、苦しくて、イヤーッと叫びたい気持ちだった。毎晩かなしい気持ちにはなるけど、そんな気持ちが特に強くなる時期がある。決まって、過去の怖い記憶が呼び起こされて、過去をなぞるように悪夢を見る。

ぼくがこんな風になってしまうのは、過去のせいであり、体調のせいであり、夜のせいであり、空腹のせいであることをぼくは知っている。朝になったらきっと動けるだけの元気が戻ってくるから、そしたら熱いシャワーを浴びて、カーテンを開けた明るい部屋で好きなものを食べるといい。わかっている。



ぼくはこんなツイートをした。

ぼくんちは熱いお湯が出るし、日光がたっぷり入ってくるし、台所にはおいしいパンとジャムとスープがある 白湯を十分に沸かすやかんがあるし、温かい布団と服がある こうやって文字にすると少し楽しい気分になる なんでもできちゃうじゃん!と思う

たしかに、ぼくの家はこんな風に暮らせるようになっている。衣食住が揃っている。それはありがたいことだとわかっている。これをツイートしたときは「なんでもできる!」という言葉が浮かんだこともたしかだ。でも、それでも、どうにもならないこころ、というものがある。


今の生活が程よく整えられているからといって、幸せになれるとは限らないじゃん。今のぼくが幸せそうに見えるのは嬉しいし、素敵だけど、ぼくのなかの、どうにもならないこころを無視しちゃいけない。

この、ぼくのどうにもならないこころは、ぼくにしか見えない。他人のこころはその人にしか見えない。他人のこころを大切にすることはできるかもしれないけど、こころが「存在する」と決められるのは自分だけだ。「存在する」と決めないと、周りの人がそのこころを大切にすることはできないし、自分で大切にすることもできない。


ぼくの先のツイートは、なんだか過去を、ぼくのこころを、無視しているような気がする。なんとなく。ぼくはすぐに過去を忘れるフリをしてしまう。

「こうやって文字にすると少し楽しい気分になる」のではなく、「気分は最低だけど目の前に幸せになるための要素があることは視覚的にわかるようになる」が正しいかな。「なんでもできちゃうじゃん!」という気持ちは、目の前においしいものがいっぱいあるときの高揚感でしかなくて、おいしいものによってぼくが本当に満たされるかどうかは話が別なのだ。



今のぼくはこの文章の通りのことを考えているけど、数ヶ月後、数日後、数時間後のぼくがどう考えるかはわからない。いつかのぼくが読み返して「なんやこれ、共感できない!」と思うかもしれない。人間は意図せず常に変化するものだからね。言葉の意味も広いし。だから文章を書いて残すのは怖いけど、書いちゃう。変だね。

でも、どうにもならないこころは目に見えないんだからしょうがないんだよ。書くことを重ねなければ、ぼくは自らのどうにもならないこころを見てあげることができないらしい(もちろんみんなが見ることもできない)。嘘の文章をツイートして、そのこころを蔑ろにするのも、ぼくなのだけど。



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