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私達は、演じるのに忙しい

最近、フランスについて書かれたとある本を読んでいました。
その中で「フランス語には姉・妹・兄・弟という言葉が存在しない」とありました。英語のSister / Brotherと同じように、友達から「私のSisterよ」と紹介された時点では相手が姉なのか妹なのか分からない。だからフランス語や英語の映画や本を翻訳する時に、日本語の翻訳者はなんて書いたら良いのか分からず苦労するのだそうです。

なぜ日本語ではハッキリと区別をするのか。それは役割を演じる必要があるからだ、と本の中ではコメントされていました。

これまでに66回海外渡航歴があり、仕事でも中国韓国台湾、ロシア、トルコ、スペイン、イタリア、オランダ、ドイツ、タイ、インド、ブラジル、アフリカなどなど様々な国々の人達と関わってきたのですが、この本で触れられていることに「確かになー」と思うところもあったので、個人的見解ですがnoteにしたためてみる事にしました!


常に求め、求められる“役割”


英語やフランス語では姉/妹、兄/弟を区別しない。

区別に慣れているこちらからすると、なんとなく落ち着かない感じがする。ハッキリさせたくなる気がする。でも考えたら確かに、目の前にいる他人が友人の姉でも妹でも、本来はどっちでもいいっちゃどっちでもいい事のはずですよね。
日本語がそこをハッキリさせたがるのは、それに応じて私達の「役割」が決まっていくからなのかもしれない。

私達は常日頃から、妻・母・上司・部下・店員・客・先生・生徒・年下・年上など、常に複数の役割を演じています。

欧米の方が上司や部下、店員や客などの関係性が日本よりもフラットに感じます。店員が客に、部下が上司に「やほー元気?」と声をかける光景は日本ではなかなか想像が出来ないですね。敬語など、言葉の構造の違いもあって、やっぱり日本語の方がより明確に関係性を区別していると思います。

私達は常に自分や相手を役割で識別し、ふさわしい振る舞いをしなければと感じ、相手にもそれを求めていると感じる。そして頻繁に自分にこう問うていないでしょうか。

「私、上手く演じられている?」


ふさわしい振る舞いが求められるプレッシャー


役割を与えられたら、それにふさわしい振る舞いが無言の内に求められます。
後輩のくせに生意気とか、先輩のくせに頼りないとか、妻ならこうあるべきとか、母だからこうしなければとか、子供なんだからこうしろとか、もう年寄りなのにこんな事始めたら恥ずかしいとか、店員のくせに接客がなってないとか、お姉ちゃんなんだからしっかりして、とか。

初めて会った人に年齢や仕事を聞く人が多いように感じるのも、相手をカテゴライズして認識するのと同時に、自分自身の演じる「役割」も決めないと落ち着かないからなのではないかと思います。
自分が年下の立ち位置なのか?年上なのか?相手を「格上」として尊敬し謙虚に出た方が良いのか?対等に気軽に話して良い相手なのか?

無意識にその場、その舞台で各々が演じる役割が決まっていく。自分や相手の役割が決まっていないと、どう振る舞っていいのか分からなくて落ち着かない。

そして重要なのは、自分自身が自分を役割の枠に当てはめて、ふさわしい振る舞いが出来ているかどうか?を常に意識したり心配してしまう事が、あるいはそれを求められる事が、多くの人に苦しみを生み出しているのではないか、という事です。

「父親だから、もっと威厳をみせなければいけない…」

「先輩なのに、後輩の方が優秀なんて耐えられない…」

「子供なのに、親を悲しませるなんて人として失格だ…」

「妻なのに料理が苦手なんて情けないと言われて、モヤモヤする…」


「後輩」の時は甘えキャラで許されてたのに、「先輩」になった途端しっかりしないと…とかあるよね。


仮面の下の私は、どんな顔?


こうして常に複数の役割を演じ、役割としてふさわしく振る舞えているかどうかを気にし続けているうちに、もしかしたら私達は自分らしさというのが分かりにくくなっているのかもしれない、と思います。

他人にどう見られるかに意識を集中させていると、“私”というスタイルを確立させるのは難しくなる。

気持ちの面でも役割に縛られすぎてしまい、必要以上に「こうすべき」「こうあるべき」を自分に課してしまうと、本当は自分はどんなに個性的で魅力的な人間なのか?本当はどうしたくて、どう思っていて、どうありたいのか?が、自分ですら分からなくなってくる。

私達は、子供の頃から沢山の役割を与えられ、あるいは自分で選び取って来ました。そうこうするうちに役割と自分自身が同化し、仮面の下の素顔を自分に見せる事さえなくなっているのではないでしょうか。本当は今どんな表情をしているのか(どんな気持ちでいるのか/本当はどうしたいのか)が感じ取りづらくなっているのではないでしょうか。

何かである前に私。

私はこんな人とか、こうしたいとか、こう考えるとか、こんな表現をしたいとか。自分の本音と向き合い表現することはわがままでも怠慢でもありません。

それは自分に対する誠意。

自分と向き合って本音を見つけ拾い出してあげられるのは、他ならぬ自分でしかありません。

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