悪魔

悪魔がいる。
悪魔がいるのは俺の隣の隣の席だ。
俺はこの日、残業で長引いた会社からの帰り、前からちょっぴり気になっていた店の灯りに誘蛾灯のように引かれ、一杯だけビールを戴いていたのだ。
ふと気付くと、隣の隣に悪魔がいた。
悪魔と言っても、おとぎ話に出てくるような、分かりやすい姿はしていない。
悪魔は茶色の帽子を被り、茶色のジャケットを着て、暢気にチューハイなんか注文していやがった。それだけなら、ただのうだつの上がらないオッサンで済んだだろうが、ひとつ違う点がある。
奴には牙が生えていて、瞳はゾッとするほど赤く燃えていた。長い舌をチョロチョロと出し、チューハイのコップの縁に挟み込まれた、スライスされたレモンをしきりにペロペロと舐めていた。ヤバい。俺はそう思った。悪魔でなくとも、皆にも経験はあるだろう。居酒屋でヤバいやつを見かけたら、誰だって背筋に緊張が走り、距離を取ろうとするはずだ。
俺は奴との間に、ひとつ席が空いていてよかったと心底思った。ひとつ席が空いているから、これは心理的にも距離が離れているし、奴も迂闊には話しかけづらいだろう。しかし下手に席を動いてしまって刺激してしまっては元も子もない。俺は知らんぷりをして、そのまま素知らぬ顔で飲み続けることにした。
 居酒屋には普通店員がいて、客との談笑に励んでくれたりするものだが、この店はそういうスタイルでは無かった。注文されたものが出てくるだけで、マスターも店員もどこか無愛想である。けれども互いに夢を語らう、なんて虫酸が走るコンセプトの居酒屋も糞だから、俺はその無愛想だけは逆に買っていた。しかし、そういった店だから、第三者の介入なんてものは梃子でも望めないだろう。悪魔は隣の隣で飲んでいる俺に対して、何かアクションを起こすだろうか?俺は気が気で無かった。
 結局、入店して一時間が経つと、悪魔は普通にお会計をし、店を出ていった。拍子抜けであった。店員も気付いているのか気付いていないのか、顔色ひとつ変えずに対応していた。もしかすると、悪魔は常連客なのかもしれない。俺は、悪魔に注意を払い続けた小一時間を思いながら、すっかりぬるくなってしまった目の前の
ビールを見つめた。ビールは黄金に輝いていたが、泡が怠く弾けていて、あまり旨そうではない。
 翌日、会社で悪魔を見たことを話してみたが、誰にも信じて貰えなかった。仕事のしすぎで頭がおかしくなったのだと、のたまう奴もいた。悪魔にはあれ以来出会っておらず、見せようにも見せることは出来なかった。終いには、あまりにも信じてもらえないので、確かに俺は頭がおかしくなってしまったのではないかと思うようになった。
だが、俺は本当に見たのである。悪魔が美味しそうにビールを飲むところを。長い舌でつまみの唐揚げを平らげるところを。
 日常というものは残酷である。いつまでも人間が過去にこだわることを許してはくれない。俺は仕事に追われ、朝起きて夜帰って寝るだけの生活を続けるうちに、悪魔のことなどすっかり忘れてしまっていた。下らない。そう思うようにさえなった。時に思い出しても、冗談として笑い飛ばすことさえあった。
 ある日、ビデオ屋でどの映画を借りようか悩んでいると、一瞬牙が生え、赤い目をした男とすれ違った気がした。振り返って見る。確かに、あの悪魔であった。悪魔はSFコーナーの前でスターウォーズを取り出し、何やらしきりに思案している。恐らく、悩んでいるのだろう。俺はどのように話したら、この状況を他人が理解してくれるか、しばらく考えてみたが、途中で諦めた。どう考えても、信じてくれそうにないからである。いっそのこと、写真を撮って共有しようかとも思ったが、悪魔にも権利というものがあろう。俺はその場を後にして、店を出た。家に帰るまで、悪魔の生活がどうなっていて、奴にも仕事というものがあって、仕事終わりにTSUTAYAに寄るということもあるのかしらと、思考を巡らした。


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