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「 社会」の外側からみたウクライナ

農業を生業とするものとして、今のウクライナについて感じることを改めて書いてみたい。

約20年前の就農したての頃、有機JASのセミナーに参加したことがある。その講師から最初にいわれたことは、「有機JAS規格は生産物の安全性を保証するためのものではありません」というもの。
当時、有機農産物は安全・安心と思ってこの世界に入った自分は、驚くと同時に変なことをいう奴もいると思ったものだ。

有機農産物への誤解


そもそも有機JAS規格とは「農業の持続性の担保」と「農業による環境破壊防止」を目的としたものなので、セミナーでいわれたことは実は極めてまっとうな話だったのだ。だけど、何かにつけて「安全・安心」が売り文句になるこの社会では、売る側も作る側も、世間に流通している「有機(無農薬)は安全・安心」というイメージを無意識に、あるいは意識的にそのままにしている。セミナーに参加した当時、自分もそのことについて無知であったわけ。

いわゆる「農薬」への負のイメージはたいへん大きいので、それがこうした誤解の源になっているんだけど、農薬は体に悪いといっても同等かそれ以上のアブナイ成分は野菜一般だって持っている、というのが実態なのだ。なぜなら植物だって食べつくされたくないから、自己防衛のために虫や動物、病原菌がいやがる成分を蓄えるのは進化の王道。農薬も同じことが目的なわけで、それと同じ機能を持つものを植物は進化の過程で獲得してきたというわけ。
自分たち人間の先祖は、そうした植物の中から自分にとって有毒成分が少なく、栄養価が高く、おいしいものを長い時間と労力をかけて選抜してきたのだ。

それでもその野菜たちの中には、例えばコーヒーやキャベツ、ケール、バジルになどに含まれるカフェ酸、キュウリやズッキーニに含まれるククルビタシン、アブラナ科一般に含まれるグルコシノレートなどの有毒成分(発がん性や内臓障害の原因物質)は依然として含まれてはいる。しかし、それよりも食べ物としての効用がはるかに高いから食べ物でありうるわけ。

中には、香辛料を含む一部の食材のように、むしろそこに含まれる有毒成分を目当てに栽培や採集が続けられているものもある。
またカフェ酸やグルコシノレートのように発がん性や肝臓障害の原因物質であるとされる一方、抗がん作用等の「機能性成分」として認識されているものもある。

つまり、食べ物は毒が一切ないものがよいわけでないことが、これらのことでよくわかる。清濁どちらか、なんてことは世の中ないのだ。
そしてこどもに「イイコいいこ」だけやってメンタルやボディがうまく育たないことは、食べ物についても同じ。「毒」はかならずしも「悪者」とはいえない。必要な要素であるといってもいいだろう。

ちなみに以上のことはあくまで一般論。人によって食べ物アレルギーがあるように、特定あるいは複数の化学物質に過敏な体質を持つ人がいることは事実。一般論を超えて、あうあわないというパーソナルな危険性はもちろんありうる。

有機農業の可能性


ということで、有機農業と作物の安全性は無関係だ、と考えるようになってしまった新規就農の私。同じころ、当時所属していた出荷組合の客先(農産物のバイヤー)が開いてくれた技術セミナーにも参加し、そこで再び驚くことになった。どんだけ無知だったねん、という話でもあるが。
そこでは新しい有機農業の可能性が語られていた。有機農産物は、そうでないものに比べて高品質になる潜在的能力を持っている、というもの。

大昔になっちゃうけど、自分が農学部で習ったのは、植物が吸収する窒素は化学肥料のような無機態のものであり、有機質肥料は土中で微生物によって分解され、同じく無機態にならないと吸収されない、というものだった。しかし、セミナーの講師によれば、タンパク質を含む有機物が無機態になる途中のアミノ酸態の窒素も植物が吸収していることがわかったという。太陽からエネルギーをもらって体をつくっていく植物にとっては、その素材として、分解しつくされてエネルギー全放出状態の無機態窒素よりも、エネルギーがまだ残存しているアミノ酸態の窒素を吸収したほうが、健全(=高品質)に生育するうえで有利だというのがその理論。(ちなみに、植物が吸収する有機体の窒素はアミノ酸ではなくて微生物の細胞壁由来のペプチドだとする説の方が本当っぽいと今の自分は思うようになっている)

そうか、有機の「ウリ」は「安全・安心」ではなくて「高品質=栄養価が高くて、おいしい」ということだったのか!ということで大いにモチベーションを刺激されたものだ。そしてまた、有機質肥料だけではなく作物生育においてカリウム・カルシウムやマグネシウムといったミネラルの重要性もみっちり教え込まれた。
その後しばらく、自分は当該バイヤーが全国各地で開くその講師のセミナーに足繁く通うことになった。まったく知らない土地の、まったく知らない畑での現地指導に立ち会うというのは、なかなか刺激的な体験だった。
しかし、問題がひとつあった。その講師が実は有機質肥料やミネラル肥料を製造・販売する肥料屋さんだったことだ。

セミナーで講師は自社の肥料製品のことを、自分からは一切口にしない。自分たち生産者は、興味を持つ前に製品を営業されたとしたら、ふつうはせいぜい話半分から聞き始める。しかし、理論的に有機質肥料やミネラル肥料の重要性を諭され、必要性を感じるようになれば、遅かれ早かれどういうものがいいのか、と自分から講師に聞くようになるのが自然な成り行きなのだ。

かくして、ある時期、自分はこの肥料屋さんからたいへんたくさんの肥料を購入することになる。
結果、高品質の野菜が作れるようになったか?
答えはもちろん、否である。

足し算としての農業

購入していた肥料は決して悪いものではない。必要性を感じれば、現在でも使っている。だが当然ながら、農業はどんな肥料を、どんなタイミングで、どれだけ使うかという「肥培管理」だけでうまくいくものではない。
さらに言えば、水耕栽培・野菜工場といったものを除けば、農業において人間のできることは限られている。もともと怠け者の自分はもちろん、人間の力だけでは「いいもの」は必ずしもできない、ということがだんだんわかってくる。

もっと言えば、人間は何かにつけ「やりすぎる」傾向がある。たとえば有機農家アルアルは「堆肥のやりすぎ」だ。何か月か先の失敗がコワイのは当然だけど、なぜか過剰よりも不足の方を心配しがちなのだ。結果、窒素・リン酸やカルシウムの過剰で病気が多発する。
ここ10年ほどのトレンドである「自然栽培」は有機栽培に比べればその目的と定義であいまいなところがあるものの「やり過ぎ」の反省から生まれた面もあるだろう。「やらなさすぎ」という反対側にある「過剰のワナ」に気を付ければ、自分にとっても学ぶべきところが多い。

世間がコロナ禍になって、ある人は、予め設定した「予定」に向かって計画し行動を積み上げていく「引き算」の時間から、先が読めない時間の中をひとつひとつ先に進んでいく「足し算」の時間を歩むようになった、といっていた。
想えば、農業はもともとそれに近い。収穫の予定はたてて、そこから逆算して作付はする。だが慣行だろうが有機だろうが、天候や動物/昆虫/雑草のはたらきに応じて、計画はいつも変更され、やるべき作業は増えていく。つまり足し算していくのだ。

「世界」からの眺め

さて、有機農業は環境破壊防止が目的のひとつと書いたが、20世紀後半に発達した生態学から、日本の里山で営まれてきたような農業は、環境破壊を防止するどころか、生物多様性を増進させ生き物世界を豊かにする、という学説が出てきた。「中程度攪乱説」という奴だ。

農業でも平坦地で行われている大規模集約的なものは経済合理性に優れている一方、攪乱程度が大きすぎて生物的環境が単純化するのは当然だが、人為的攪乱なしの手つかずの自然に比べても、適度に攪乱された里山のような環境の方が生物多様性は高い、というのがこの学説だ。
これは農家の実感としては割と納得できる話ではないだろうか。作物の作付や周辺部の草刈が継続されている一団の場所に比べ、耕作放棄された場所の生物種はひとめみただけで単純化したのがわかるのだから。

その生き物世界の中での野菜作り。自分にとっては「社会」人として生きていくための生業だ。約束のものを作って約束の場所に届けるのが自分の仕事。
そんななか、生き物的には害獣・害虫の存在が一番気にかかるのだけど、そうしたままならないやつらも含め、あるとき、ときおり、「社会」の外側の「世界」にでた気分になるのは農家の特権なのだろうか。いや、どんな職業の人も、たとえばふと目に入った夕焼け、気が付いたら背後にあった大きな虹、突然目の前に現れた紺碧の海、あるいはその時そこにある何もかも吹き飛ばしてしまうような暴風の力によって、ふと「社会」の外側に出る事があるに違いない。

たまたま自分たちは、そんな「社会」の外側に一番ちかいところで仕事をしているのかもしれない。
その仕事は、実際のところ自分だけではできない。人間だけではできない。「社会」だけではできない。空と土と水と、そして生き物たちからなる「世界」からの恵みが必要であり、そしてそれは時に災厄もまた、もたらす。

農業だけでなく、そもそも「社会」と「世界」の関係はそうできていると思う。お金が動いたり油が動いたり自粛したり殺し合いが絶えなかったりの「社会」は、空と土と水と生き物の「世界」からみれば人間が作ったメタバースみたいなものかもしれない。だけど時としてそのメタバースの論理は破綻しそこにホンモノの「世界」が侵入する。ある時は津波として。ある時はパンデミックとして。

想うにそんな「世界」には「正義」や「悪者」という概念はもともとない。
そして組織ぐるみの殺し合いである戦争は、国際法がどう言おうが関係なく、ふつうの人を狂わせいずれ必ず「非人道」に向かう。そこに「世界」の一部が(自分たちにとって)不幸な形で侵入してきてしまった、ということなのだ。

ロシア軍も非人道的だろうけど、ウクライナ軍もきっとしかり。

2ヶ月ちょっと前の2月下旬から始まったとされるこのウクライナ戦争(侵攻?)は2014年2月のマイダン革命をきっかけに起こったドンバス紛争という「非人道的」殺戮の延長とみるのがまっとうだと思う。
そして今、この地域には両国軍やウクライナの(西側メディアが否定するネオナチ)治安部隊や民兵だけでなく、アメリカの民間軍事会社の傭兵シリアからCIAが連れてきたISの残党、ロシアがチェチェンやシリアから連れて来た元ゲリラが混然となって戦っているといわれている

軍隊は、災害救助をしてくれる限り本当にありがたい人たちだ。しかし、戦場下の彼らは、勝ち進めば敵方市民を、負けがこんでくれば味方市民を「略奪・強姦・虐殺」の対象とすることは沖縄戦を含む十五年戦争の歴史が証明している。そしてそれはしばしば命令系統が混乱する中で起こる。ネオナチが強く疑われる組織の存在に加え、民兵や傭兵が入り乱れているとすれば、その中で指揮命令系統がいろいろ混乱し、双方が「ひどい状況」になるであろうことは簡単に想像できる。
そうした悲劇のあれこれを、どちらも相手のせいにして世界中に報道しているのが今現在なのだろう。西側のメジャーメディアではロシアの残虐性ばかりが強調されているが、ネットではそれとはまったく別の映像をみることができる。
ロシア系メディアが統制されているのは確かだろうが、西側メディアがそうではない、という根拠はどれくらいあるのだろうか。特に今のような戦時に。

80年近く前の真珠湾攻撃のあと、この国のメディアではアドルフ・ヒトラーがヒーロー、ルーズベルト米大統領は悪魔として描かれていたという。

その報道をしていた人たちは、戦後に同じことを繰り返さないために何かしただろうか?
記者クラブ制度で権力から便宜を受けるだけでなく、クロスオーナーシップで新聞・ラジオ・テレビが一体となっている状況のもと、稼ぎ柱のテレビ局、これが放送法という世界的に稀有な法律でもって政府から首根っこをおさえられている。そこにどれほど「報道の自由」はあるのか。
そして自由と思われていた欧米のメディアも、今回の件でそうでもなかった・・・、と想像せざるを得ない。

イギリスの政治家・アーサー・ポンソンビーが1920年代に著した「戦時の嘘」というのがある。その嘘とは以下の10項目。1から10まで、これはまさに今・この時のリアリティであることに驚かざる得ない。

1. われわれは戦争をしたくはない
2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4. われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
5. われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる
6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7. われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8. 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9. われわれの大義は神聖なものである
10. この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である

アメリカがしかけた戦争により民間人はアフガニスタンで5万人、イラクでは10万人亡くなったという。戦争犯罪人として国際刑事裁判所に提訴されるべきジュニア・ブッシュは、今も自国アメリカで何不自由ない生活を謳歌している。
一方シリア内戦では民間人だけで10万人以上の人が亡くなっている。今現在アフガンやイラクでの危機は終わっていないし、エチオピアやイエメンでも世界最大級の人道危機が起きているという。
そしてウクライナで亡くなってしまった市民は少ない見積として約3000人だとか。
3000人だけだからいい、というわけではない。だがなぜ、自分たちはロシアの悪行にばかり目を奪われてしまうのだろうか。

そもそも、プーチンが「これ以上NATOを拡大するな、ミンスク合意を守ってドンバスの自治を認めろ」といってきたときにバイデンが話し合いに応じていれば、ウクライナでの今現在の不幸はなかった。多くの市民が家を失って他国に逃れたり、3000人以上の人たちが亡くなることはなかった。
バイデンは今の事態を想定していたはずだ。現に昨年末からロシアがウクライナに侵攻しそうだ、と本人自ら警告し続けていたのだ。

それなのにそれを防ぐ方向になぜ動かなかったのか。かつてのソ連がアメリカの喉元のキューバにミサイルを配備しようとしたときに、アメリカとの取引に応じて矛を収めたフルシチョフのような振る舞いが、なぜできなかったのか。
そしてなぜ今も動かないのか。人が家や命を奪われ続ける結果をもたらすウクライナへの武器支援を「正義」としていることについて、彼はまったく疑いを感じていないように見える。

ゼレンスキーウクライナ大統領は、国民に徹底抗戦を呼びかけている。命の危険にさらされた市民は自ら戦闘しろ、ということだ。またシリアからウクライナに入るある傭兵は、その動機をEU諸国に脱出することだと語っている。そんな傭兵は多数いることだろう。

武器を売りたいサイドはそれを使ってくれる「困っている人」を常に必要としている。

だから、どちらかを「悪魔」にして「戦い」や「制裁」の理由にするのはもうやめてほしい。「とにかく一旦やめるためにはどうするか」という話は、相手を「悪魔」にしてしまってはできないのだ。「悪魔」認定を続ける限り、「困っている人」たちはどんどんひどい状態になっていく。
そしてひょっとすれば、「破滅的な事態」も招きかねないのだ。
「人」は状況によっては「人でなし」になってしまうもの。しかしそれは「社会」の外側にある「世界」からみれば「悪魔」ではなくやはり「人」なのだ。
仮に神がいるとすれば、神はなにかを判断できるかもしれない。だけど、少なくとも自分たちは「悪魔」を認定することはできない。

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