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おじいちゃんは孫の制服姿を絵に描いた

はじめてiPadで絵を描いた。雑誌を読むために買ったiPadだけど、せっかく買うならいろんなことに使いたいと思って、Apple Pencilも一緒に揃えた。それで、せっかくだから、と休日に筆(デジタル)をとったのだった。「せっかくだから」はわたしの常套句だ。

当たり前だが突如うまく描けるわけもなく、自分の力の無さに落胆した。おじいちゃんたちの血を、やっぱりわたしは受け継いでいない。

おじいちゃんは、父方も母方も、絵を描く人だった。わたしが生まれる前に亡くなってしまったおじいちゃんは美術の先生だったし、もうひとりのおじいちゃんは趣味で長く絵を描いていた。

絵の具のにおいがする。iPadからするわけではもちろんなくて、それは20年と少し前にかいだにおい。おじいちゃんの部屋。部屋はいつも特別なにおいがしていた。絵の具と少しのほこりっぽさ。いいにおいではないかもしれないけど、嫌いじゃなかった。日光と、暖房の暖かさが似合う。

20年と少し前。3年間のガリ勉生活を経て挑んだわたしの中学受験は予想に反してうまくいかなくて、最後に受けた学校から、ようやくはじめての合格通知をもらった。手に入れた制服を眺めて、スカートのウエストにある苗字の刺繍のでこぼこに触れて、ほっとした。

入学前に制服を着て、おじいちゃんとおばあちゃんの家に遊びに行った。ふたりはとても喜んでくれて、おじいちゃんは絵を描こうと言って笑った。わたしはおじいちゃんと2人で、画材のある部屋に入った。

おじいちゃんに絵を描いてもらうのは、はじめてじゃない。写真をもとに描いてくれたことがあった。バレエの発表会で、チュチュをまとってお辞儀をしたわたしを描いた絵は、いちばん好きな自分を切り取ってくれたみたいで、何度もうっとりと眺めた。肌の色を白く塗りすぎじゃないかとも思ったが、実際厚化粧だったんだろう。

そんなバレエも、中学受験のためにやめていた。バレエをやっていた9年間でいちばんの思い出は、あのお辞儀をした自分だ。右足をうしろに引いて、チュチュの先に手を添えた、すまし顔のわたし。

写真を見てではなく、目の前でわたしを見ながら描いてくれたのは、制服姿がはじめてだった。たしか、なんの音楽も流れていない部屋で、テレビもなかった。あの日は晴れていて、南向きの窓がやけにまぶしかった。宙に浮かぶほこりが、目にもしっかり映る。少し呼吸が浅くなった。

立つ場所を指示されて、できるだけ動かないようにと言われた。

紺色のブレザーと、同じ紺色で大きなひだのプリーツスカート。地味であまりかわいくはないけど、中学生の象徴のようでソワソワする。制服はその後、わたしが高校2年に進学したときにリニューアルされた。チェックのスカートはうらやましかったけど、私をはじめほとんどの同級生は、卒業まで旧式の制服を着続けた。

目の前で筆が動くたびに、部屋のにおいが濃くなっていく。紺色なんて、とくに、濃い。背中に日の光をあびながらキャンバスに向かうおじいちゃんを、所在なく眺める。

おじいちゃんは描いているあいだ、ほとんどしゃべらなかった。たまにこちらを見るときに目が合って、わたしはとまどう。ふたりで顔を突き合わせているのに会話をしない状況がくすぐったくて、居心地が悪くて、早くこの時間が終わればいいのにと思った。

人と会えば言葉をつかう。その言葉は今や、オンラインにのって遠くまで運ばれる。どこの誰とでも、ちゃんと会えている気がする。そんな気になれる。

目の前にいるのに言葉もつかわず向き合っていた、おじいちゃんとわたしの時間。今思えば、「早く終わってほしい時間」ではなかった。あんなに人との濃い時間を過ごしたことはないと思う。絵の具とほこりに塗れた静寂。おじいちゃんはどんな気持ちで描いていたんだろう。当時は想いを馳せることもなかった、相手の気持ちを今さら知りたい。

おじいちゃんはあの日、制服姿のわたしのうしろに桜の木を描いた。少し早い、満開の桜。

おじいちゃんは10年以上前に亡くなった。あの家ももうない。ギリギリ見届けてもらえなかった成人式の袴姿や、大人も板についてきた今の姿。もしおじいちゃんに見せられたなら、ふたたび絵に描いてくれただろうか。Apple Pencilを手に、わかりもしないことを考えている。

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