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社会

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#哲学

大衆は弱者を支配するよりも、自分を支配する強いものの方を選ぶ

ずっと読まなければいけないと思っていたアリス・ミラーの魂の殺人という本についに手をつけた。 この本のタイトルは魂の殺人。でも、その横に書いて在るサブタイトルがあまりにも恐ろしい。 サブタイトルは、ごらんの通り、親は子供に何をしたかというものだ。 このカバーの部分だけを読んでも、どこか何か心をえぐられる気がする。 一番上に引用した文だが、これはあまりにも的を得すぎているので、今回あえて引用させてもらった。 この一文はあのアドルフ・ヒトラーの言葉だ。 絶対に許すことの

破綻と成長(破綻を認められない井の中の蛙)

日本はもうすでに破綻している。もっと言えば、世界もまた破綻している。 けれど、私たち人間というのは面白いもので、その破綻を絶対に認めようとしません。 完全に破綻している世界がここにはある。でも、その破綻を認める事が出来ないから、私たちは、その破綻から目を背ける様に、幻想にしがみつく。科学技術というものにしがみつく。 この世界は、もっと早く、もっと便利に、もっとスマートにを今全面に押し出している。 けれど、ここで一歩立ち止まって考えてみてほしい。 どうしてもっと早く、

私たちは何も知らない

私たちは、何もかも全てを知っているかのように生きているけれど、本当は恐ろしいくらいに何も知らない。この世界の事も、そして自分の心の中の事も。自分が何に端を発して日々の行動を形成しているのかも本当に何も知らない。 あれこれと勉強を重ねていくと、本当に私たちは無知だという事に気づかされて、これまでの自分になんだか絶望さえ覚える。 私たちは、自分は知っていると言った傲慢さから、その視点を広げてもっと大きく世界を見る事を止めてしまっている。これはとても残念な事。 私たちは終始、

ストレス社会が作り出すすばらしき世界

息抜きって何だろう?どうして人間には、息抜きが必要なんだろう?煙草を吸うのも、お酒を飲むのも、人と会ったり、どこかへ行ったりするのも、皆息抜きに入る訳だけれど、そもそも、この息抜きって一体何なんだろう? 毎日働いて、週に一回の休みくらい何処かへ出かけたいし、誰かに会いたい。そうやって息抜きしないとやっていけない。 こうした事をとことんまで考え尽くしていった時、息抜きしないと、何らかのストレス解消をしないとやっていけないこの社会とは一体なんなんだ?と思ったりする。 この社

作り上げられた自己イメージからの脱却

自分がしているのか?それとも、させられているのか? 自分が考えているのか?それとも考えさせられているのか? 自分の思いなのか?それとも他人の思いなのか? 自分の意思なのか?それとも他人の意思なのか? これは、私なのか?それとも他人なのか? こんな簡単な事が、たまにわからなくなる。 どんどんどんどん自分を突き詰めていくと、一体自分とは何なのか?すらわからなくなる。 これが自分だと思っていても、それは自分が自分をこういう人間だと定義しているに過ぎない。だとしたら、本

人間というもの

人間ってのは、不思議なものでいついかなる時も、目の前にある現実に向き合おうとしないで、いつまでも淡い幻想に浸ろうとする。 こうなればいいなあ、ああなればいいなあという期待ばかり抱いて、今此処にある現実になかなか目を向けようとしない。 何の根拠も示されていないのに、皆適当な希望を抱いて、適当な事を言う。 なんか、全てがずれている様な気がしてならない。現実が此処に在る。でも、それと私たちは並列して歩こうとはしない。現実と私たち人間はもしかしたら、互いに何も触れあおうともして

スクラップ&ビルド(私たちは創造し、そして破壊する生き物)。

人間というのは、不思議なもので一時行動を変えたとしても、そこに絶えず意識を向け、力をかけ続けなければ、又すぐに元の状態に戻ってしまう。伸ばしたゴムが、手を離した瞬間に元に戻るのと状況は全く同じ。 何かを言われて、その時は直したとしても、それは又すぐに元に戻る。 こうした人間ってものを観察していると、自分に絶えず力をかけ続け、その行動を意識し続けるという事が、いかに難しい事であるのか?を思い知らされる。 何でもそうだが、少し慣れてくると人間ってのは、すぐに力を抜く。そうす

絶対ってなんだ?

絶対ってなんだ?何も検証してなどいないくせに、その事をとことんまで突き詰めた訳でもないのに、どうして人は、いとも簡単に、これは絶対だとかいうんだろう? それにどうして人間ってのは、この絶対というのを、人に押し付けるんだろう?どうして自分にとっての絶対が、人類にとっての絶対だ!みたいになるんだろう? 絶対ってなんだ?どうして、絶対を押し付けるんだろう?皆それぞれで、考える事も感じる事も、思う事も違う。生きている生活状況も、時間も、空間もその全てが違う。なのに、何故、そこに絶

有限なる世界のその先に広がるは、永遠で無限なる世界。その世界の中にこそ生きる事の本質がある。

右を見ても、左を見ても、皆自分ってものを作るのに必死だ。 何とかして、私というものを作ろうと必死だ。私を何とかして形作らないと、どうにかなってしまうかのように、皆必死で、私というものを形成する。 人間というのは、私という全体から独立したものが欲しくて仕方がないらしい。全体の中から、抜け出て、独自の存在になりたい。だから、皆必死になって毎日毎日私を形成する事に命を懸けている。 皆、この全体という世界の中から出て、私という独自性を獲得した気になっているけれど、それは言ってみ

誰かにとっての良いものが、果たして本当にあなたにっても良いものになりえるのだろうか?

私たちは、意外にこの世界の事を何も知らない。何も知らずに、この社会が私たちに与えるものを盲目的に享受している。 この社会が私たちに与えてくれるものは、皆いいものだと思って、与えられるその全てを何の疑いもなく、私たちは受け入れる。 何かを考えている様で、私たち人間というのは、意外に何も考えてなんていないんだと最近よく思う。 何に対しても盲目的で、何かを意識的に捉え考えてみようという事がない。私たちは、いつからか、考える事から逃げる様になった。考える、思考の力を使うという事

傲り高ぶるな、自身を知れ、身の丈にあった事を成せ。過剰はその身をいつか滅ぼす。

私たちホモサピエンスは、何もかもその全てを我が手によって、コントロール出来るとそう思って生きているが、昨今の自然災害、疫病はコントロール不能なものになっている。 人間のもつ力は何もかもを克服する事が出来るとそうこれまで信じ込まれて来たが、どうやら、此処へ来て、私たち人間の力ではどうにもする事が出来ない事が目に見えて増えてきた。でも、私たち人間は、まだこうした現実を受け入れようとはせずに、人間至上主義を謳い、必ず私たち人類は、この戦いに勝てるとそう信じている。 自分達のもつ

何故、私たちは働くのか?そしてお金とは何なのか?

どうして私たちは、毎日時間を拘束され、自由を奪われ、必死になって働いているのか?そもそもどうして私たちはこんなにもなって必死にお金を稼がなければいけないのか?それについて考えてみた。 私たち人間というのは、働く事でお金を得て、そのお金で幸福感というものを買っている。 何故、働くのか?何故、苦しんでまで働き、お金を稼ぐ必要があるのか?それは幸福感ってやつを買う為。 私たち人間というのは、自分で幸福感を作り出すのではなく、この幸福感という奴をお金で買っている。お金で幸福感を

あと何年かすれば私たちはまるでゴミを捨てるかのようにこの地球も捨ててしまうんだろう。

私たちは、この地球にあるありとあらゆるものを全て食い尽くして、あと何年かすれば、この何の資源もエネルギーも取り出す事が出来なくなった地球を使えないものとして捨ててしまうんだろう。 こんな事は考えた事もないかも知れないが、私たちは、日々、この地球から色々なものを搾取している。この地球が持っている様々な資源、エネルギー、その全てを私たちは自分たちの為に毎日奪い続けている。 取れるものは取って、食えるものは際限なく食いつくす。こうした事を私たちは毎日の様にしている。 この地球

指示待ちロボット化人間

私たち人間は、毎日少しずつロボット化している。ロボットになどなりたくないとそう言いながら、その身体は徐々にロボット化している。 何をするにも、私たちはもうロボットに頼る様になっている。知らず知らずの内に、私たちは少しずつこのロボットというものに、この身も、そして心も浸食され始めている。 自分で考える事無く、何でもスマホで調べる。これだけをとっても、もう私たちはある意味ロボット化している様なもの。 何でもかんでも、今の時代に生きる私たちはスマホから、自分に必要な情報を得る