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今月のForbs Japanの田坂広志氏の記事に、以下の様な事が書かれていた。 田坂広志氏のいうボランタリー経済というのは、確かにネット革命以降その影響力を大きくはしたと思う。 ネットというものを通して、多くの人がいろいろな地点で様々な情報を共有するようになり、この目に見えない資本というものはつながれてきた気はする。 でも、このボランタリー経済というのも、その背後には、人間の欲が隠されている気がする。 ボランタリー経済とは、相手のためにするということが大前提に立ってい
マスとは、集まり、集団、群衆、大衆、多数などを意味します。 このマスという言葉はあまりにも恐ろしい。 なぜなら、みんながいいと言っているものは、いいという押しつけを作るから。 人間ってのは、そもそも皆違う。なのに、この世界は本当におかしくて、薬一つとっても、だれかにとって有効なものは、別のだれかにも有効であるとそういう。 それってよくよく考えて見れば、おかしなことなんだけれど、それを皆気づかない。 皆にいいものなんてあるわけがない。それは薬もそうだし、いろいろな習慣
小さいころから、親にこんなことをよく言われた。 余計なことは言わなくていいんだよと。 何か親にとって都合の悪いことを、子である私が口走ってしまうからそんな私に親はいつも余計なことを言わなくていいとそう教育した。 この余計なことを言わなくてもいいという親の発言は、いつからか私の中で正直に思ったことを口に出していってもいいんだよという事を否定させる方向へと進んでいきました。 子供から大人になる過程で、親から言われた子の余計なことは言わなくてもいいんだよという教えは、私の中
私たちは、何もかも全てを知っているかのように生きているけれど、本当は恐ろしいくらいに何も知らない。この世界の事も、そして自分の心の中の事も。自分が何に端を発して日々の行動を形成しているのかも本当に何も知らない。 あれこれと勉強を重ねていくと、本当に私たちは無知だという事に気づかされて、これまでの自分になんだか絶望さえ覚える。 私たちは、自分は知っていると言った傲慢さから、その視点を広げてもっと大きく世界を見る事を止めてしまっている。これはとても残念な事。 私たちは終始、
自分がしているのか?それとも、させられているのか? 自分が考えているのか?それとも考えさせられているのか? 自分の思いなのか?それとも他人の思いなのか? 自分の意思なのか?それとも他人の意思なのか? これは、私なのか?それとも他人なのか? こんな簡単な事が、たまにわからなくなる。 どんどんどんどん自分を突き詰めていくと、一体自分とは何なのか?すらわからなくなる。 これが自分だと思っていても、それは自分が自分をこういう人間だと定義しているに過ぎない。だとしたら、本
何の為に、~するのか?どうして自分は~をしようと思うのか?それを私たちは、意外に何も考えずに、その場の空気というものに流されて、ただ何となく周りがしていいるからといった理由でする。 皆がしているからとか、世間一般の考えがそうだからとか、そう言った流れだから、ただそれに従うまでで、私たちは、特に何も考える必要がないと思ったらそれは大きな間違いだ。 自分で何も考えずに、ただ自分の周りにある環境に流されて生きて行ってしまえば、その中で自分が光るという事はまずない。 ただ何とな
毎日毎日、私たちは鏡に映る自分の顔を見てうっとりする。そしてその鏡の中にいる自分を誰かに見せたくて見せたくて仕方がなくなる。 鏡の中に映る自分。それはとんでもなく美しい。だから、その自分を私たちは自分だけのものにしておいてはいけないという思いに駆られる。この鏡に映る美、それを自分だけのものにしておくのは罪。多くの人はそう思い、その鏡に映る美しい自分を他とシェアしようとする。 他に自分の美を共有してもらう事で、自分の美というものは確かなものだという確信を私たちは得たくなるの
自分が発信したい事があるのなら何も隠さずにそれをそのままに発信したらいい。なのにどうして私たちはそれを躊躇し、あれこれ自分をデコレートするのだろう? 批判されるのが怖いのか?それとも変な事に巻き込まれる事が嫌なのか?何かに自分が悪用でもされるんじゃないかと不安なのか? 不安な事ばかりかんがえていれば、私たちはせっかくのチャンスをみすみす失う事になる。 私たちは何に恐れているんだろう?自分を発信する事は本来何も恐ろしい事ではない。それが自分であるのならば、その自分を大いに
コロナで今世界中が大変な事になっているけれど、その裏で私たちが知らない事が着々と進行していると考えた事はないだろうか? 私たちは日々、この管理社会の中で生きている。何もかもその全てが管理され、何処へ行っても、見られているし、何を発してもそれを見られている。どこで何をし、そしてどんな人と行動を共にし、何を発し、そして、何処にいるのか?その全てをこの国はというか、世界は見ている。 今こうして世界中がパニックになっている訳だけれど、こういう時ほど、人間というのは、真の自分が出る
これから私たちは、色々な意味で追い込まれ、そして色々なものを自身に負担しなくてはいけなくなる。私たちがこれから背負うものは、今まで以上にたくさんのものになる。 私は不安をあおる為にこうした事を書いているのではなく、知って欲しいから書いている。バカバカしいと思うなら、読むのをやめてください。 今私たちの生活がコロナというものによって少しずつ浸食され始めました。これにより、私たちの心の中には、何らかの不安というものが生まれ始めました。私たちの心の中に不安というものがあり、その
誰も自分がどうなろうが、何の関心もない。そこの道端で死んでいようが、それを抱き起そうともしない。かもすれば、そこに倒れて死んでいる人の上を固い靴底で踏みつけて歩くだろう。 自分なんてここにいたって、誰の目にも見えてはいない。ここに存在はしている。でも、実際には私は此処に存在なんてしてない。 人というのは、誰かに自分の存在を認めてもらって始めて自分がここに存在しているという事を理解出来る。だれも、自分を認知してくれなければ、いつまでたっても自分は実体を持たない幽霊のようなも
この何もかもその全てにおいて恵まれすぎている日本に住んでいる平和ボケした私たちは、自分のその身に何かが降りかかると、いとも簡単にその自分というものをもういいやと言って放棄してしまう。 何もかもが面倒くさい。何もやる気がしない。もうどうなったっていい。そう言って、簡単に自分というものを生きる事を放棄する。 今現代に生きる私たちは、あまりこの自分というものに特別な感情を持ってはいない。自分が今此処にこうしてあるという事にあまりというか、特にそれほど強い感情みたいなものは持って