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物語はきっと、細胞の一つ一つに染みこんでいる。

忘れられない本の紹介をしようと思い立って二つほど記事を書いてみたはいいが、早々に心が折れかけている。

というのも、思い出す本のほとんどが記憶にあるものと違ってしまっているのだ。

再版されてイラストが変わり、厚みが変わり、訳者が変わっている。そもそも私が入り浸っていたころと、図書館の建物が違う。本棚の並びが違う。


思い出の本は、
あの通路のあの棚のあの位置」にあって、「あの厚さや重さで、こんな表紙の手触り」で、「あのあたりにこんな挿絵」があったのだ。
読んでいる時に庭で鳴いた犬の声、寝そべっていた部屋の畳のにおい、本棚がおかれていた通路のひんやりとした空気。それら全部をもって「思い出の本」なのだ。

なのに、もうそれらは存在していない。
その事に今さらながら気づかされた。

ダメ押しは、実家にあった何百冊の蔵書が全て廃棄されている事。

父が子供の頃に買ってもらったという古い岩波の少年小説とか、講談社の昔の児童書シリーズとか、松谷みよこの全集とか。中学生だった私がお小遣いをはたいて買った指輪物語のセットとかが実家の廊下や押入れを改造した本棚にはぎっしりと詰め込まれていた。

あの本たちは、孤独な私の何よりの友だった。
しかしもう、私の記憶の中にしか無い。

ああ、本との縁すら一期一会だとは。
記憶の中の手触りや挿絵と違う事が、こんなに自分に違和感をもたらすとは思わなかった。

読書という体験は、本当にごくごく個人的な、その人だけの経験なのだなあ。読書中の五感すら含めて。

すっかり違う女の子になった「イーダ」を眺めながら思う。
昔の版の、銅版画の真っ暗闇に浮かぶようなイーダと椅子の姿は、物語を読んだ時の心の動きと共に、記憶の底にしまい込まれている。細胞の奥底、言葉にならない深い場所に。

そして、イーダについて思い出すとき、あの挿絵の真っ黒な部分を眺めた時の、少し怖くて震えるような感覚が、まず真っ先に甦る。

刻まれているのは物語のストーリーではなく、もしかしたら身体の感覚の方かもしれない、とすら思う。

物語を読むこと、思い出すこと。それは不思議なことだ。そんなもの無くても生きていけるのに、飢える様に求めてしまうことも含め。

改めて記憶を辿って、当時言葉にならなかった気持ちを言葉にしてみたいと思う。もう一度、私だけの物語と出会いながら。

* * *

お借りした画像を見た瞬間、子供時代の我が家の本棚がまさにこんな感じ、と飛びついた。ゲームもない、テレビもチャンネルが少なかったが本だけはあふれるほどあった。
そんな環境で育てたことにも感謝をしたい。物語が無かったら、私の人生はきっと早々に幕を閉じていただろうから。

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