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『ダメな自分』に浸ることをやめた世界は


わたしはどうも、自分の嫌なところやダメなところを繰り返し思い出しては、

「自分ってなんてダメな人間なんだろう…」

と考え、落ち込むことが癖になっていた人だった。

分かりやすくいうと、

「なんてダメで可哀想な自分」の沼にヒタヒタに浸りながら、
わたしは自分がダメなことに気づいてるの。でもどうにもならないの。だから責めないで。わたしを攻撃しないで。モード によく入っていた。

何がダメなのか、どういうところが嫌いなのかはものすごい勢いで見つける。まるで姑が嫁の粗探しをするかの如く、目を鋭く尖らせては見つけていた。
でもどうしたらそこをカバーできるのか頭を働かせることはできなかった。
その理由はただ1つ。

「自分ダメモード」に浸るのがとても心地よかったから。

そのモードでいたら失敗しても、あなたはそんなにダメじゃないよ。一生懸命頑張っているじゃない。とみんながわたしを甘やかしてくれると思ったからだ。それが心地良くて、ある意味ずっとダメな自分のままでいたかった。改善されてしまうと失敗した時言い訳できなくなってしまって困るから、だからただただその沼に、ヒッタヒタに浸っていた。

思考が割と健全で、生きるのって悪くないよね!とキラキラしながら生きている人はさぞかし疑問に思ったと思う。

こいつ、こんなに自分の悪口言って疲れないんか?
なぜ問題点を明確に明記し、改善しようとしないんだ?
効率が悪すぎないか? と。

わかっている。
外面では、こんなダメな自分で困っている体を貫いているので、そう思われても仕方ないだろうと思う。

でも内心では浸っていたいのだ。
だから改善しないのだ。ヒタヒタに浸っている間は、自分のやらかしたことが、罪悪感が、少し和らぐ感じがするのだ。それに支えられて社会生活を送ってきているから、治ってしまうと心の拠り所がなくなってしまって困るのだ。

浸っていると心地がいい。
ダメな自分を反省している体なので、自分で自分を攻撃することで、ある意味自分が守られているのだ。こんなに反省しているのだから、自分を責めているのだから、この子はこのままでいいじゃない。人間ありのままでいいのよ。と、私の頭のどこかで心の優しいおばちゃんが囁やいてくれる。そうするとみんなにもそう言ってもらえているような気になって、本当に心地がいい。気持ちいい。この沼は、言わばセルフ自己肯定マシーンなのだ。

ずーっと浸っていることは気持ちいいけれど、当たり前だが問題は解決しない。
そもそもわたしがなぜ、ダメな自分を責めているのかというと、その世界に浸らなければならなかったかというと、驚くほど仕事ができなかったからだ。
仕事ができず、失敗ばかり、思い通りにはいかず、どんなに注意を払ってもミスはするし、先輩にも迷惑をかける。そんな現実から逃げるためにヒタヒタ人間になったのだった。
なので、その現実の問題が解決しない限り、わたしは自分への攻撃を止めることができない。そして毎日自分はダメ人間だと思い、失敗し、またダメ人間だと思う。そんなことを繰り返していると、次第にわたしは、死にたくなってしまった。

いつまでも仕事ができない現実、ダメ人間だと浸りたい毎日。これでバランスが取れていると思っていた。需要と供給が成り立っているじゃないか。仕事ができなければダメ人間自分に浸れる。浸って甘やかしてもらえるのだからそれでいいじゃないと。

でも人間の心は単純な癖に複雑だった。そんな思いを抱えているにも関わらず、わたしは仕事ができる人間になりたいという思いも抱えていたのだ。バリバリのキャリアウーマンが、わたしの目標だった。だから均衡が保てずに、病気への第一歩を切り開いてしまうこととなった。

あれから何年も経ち、カウンセリングに通い、病気と戦い健全な人間でいようと決めたわたしは、“ダメ人間自分“に浸ることを辞めた。
そして浸ることを自分の決意で辞め、思考が健全になったわたしの感想は、ちょー気持ちいい!!だった。

毎日が気持ちいい。生きることで起こる様々な現象を、言い訳せずに生きるって気持ちいいことに気づいた。浸る毎日が、母体の中で赤ちゃんが守られているようなそんな安心感だとすると、浸らない毎日は、新緑の空気を胸いっぱいに吸い込むような、春や初夏のジメジメしていない爽やかな風で体が循環しているような、体の中が緑100%、爽やかさ100%のような気持ちよさなのだ。

浸ることってやめようと思って辞められるの?と思う人もいると思う。でも大丈夫。ちゃんとやめられる。
わたしは1人ではとても難しかったので、カウンセリングでお手伝いしてもらいながらだったのだけれど、ちゃんと辞められた。
でも辞めるには1つだけ絶対に必要なものがある。それは

確実に辞めるぞ」

という自分の意思。これはどうしても必ず必要だ。タバコ外来と同じで、やめようと思ったら専門家に手伝ってもらいながら辞められる人もいるし、意思が固まっていないまま、周りに流されて治療をしていたら辞めにくい人もいるように。鍵は自分の意思だ。

浸ることにはメリットもあるのだ。でもデメリットもある。
自分が今後生きていく上で、どちらが多く上回るかだと思う。
決められた人は、ちゃんと辞められる。

あと、辞めれれない人が正しくないわけじゃない。
自分の人生で、何が最優先事項なのかは自分にしかわからないのだ。
その思考がどれだけ不健全だと他人に思われようが、その思考をしていると落ち着く、辞めたくないと思っているのなら辞める必要など全くない。
だって、その人にとっては、それが命綱なこともあるから。
それは他人に決められることではないから。

でも少しでも辞めたい。わたしの人生にはこの思考は必要ない。そう思えたのなら、カウンセリングで相談して、どうしていくか決められたらいいなと思う。
わたしの手段はカウンセリングだったけれど、これも人によってはいろんな手段があると思う。自分でノートに書き殴って思考を整理できる人もいると思うし、よく知らない専門家より、信頼できる身近な人に話を聞いてもらいたいという人もいると思うし、それは自分に合った方法を選んだ方が良い。わたしのおすすめはやはり専門家に手伝ってもらうことだ。

そうやって浸ることを辞められた暁には、今まで感じたことのない心地よさを感じることができる。浸ることを辞めると、自分を自分で攻撃することがなくなる。たとえ上手くいかなかったことがあったとしても、自分を責めない。そんなことよりも、なぜこの結果になったのか客観的に見ようとする方へ力が働く。自分のミスが原因でも、じゃあ次はこうやってカバーしてみよう。まる。それでおしまいだ。なんて健全な思考。クリアすぎる。爽やかだ。

毎日自分を責めていても何も変わらない。だから人は安心するのだと思う。
変わるってすごく負荷がかかることだから。すごく大変なことだから。
並大抵ではない確固たる決意を持つだけでも大変なのに、日常生活と並行して新しいことを始めなければならないなんて、
でもそれを超えた先には、以前とは180度違う、爽やかな心地よさが待っている。

「ここまで来るのしんどかったけど、ここ結構いいやん。居心地もいいし、前より陰気臭くなくていいんちゃう?頑張ってよかったわ〜!」という、この感じ。浸かることを辞めたいと思っているそこのあなたに、変わろうと努力した先にあるこの感じを、いつか感じてもらいたいなと思う。



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