知識や情報に触れる時はまず基準を明確にする

現代ではネットを通じて知識や情報が簡単に手に入る。

しかし、いくら簡単に手に入ろうが人間の能力には限界があるため、
その全てを処理して取捨選択することは難しい。

故に情報リテラシーが大事だとよく言われるわけですが、
とは言えどうすれば知識や情報の真偽を見極められるのか?

真偽があるものなら良いですが例えば思想など絶対の正解がない場合、
それが自分、あるいは自分の所属する社会や国にとって、
役立つものであるとどうやって判断すべきなのか?

見極めるのは容易ではない、ましてや大量に見極めるべき情報等があり、
自身の時間や労力も有限な中で常に熟考できるとも限らないのですから、
実際どうすれば良いのか途方に暮れることもあるでしょう。

であれば、とりあえずこれだけは意識しておくと良いと思う要素がある。

基準です。

どんな知識や情報であれそれを主張するためには必ず、
その前提となる基準が存在します。

何かを否定するには否定する前提が必要であり、
肯定するには肯定する前提が必要になる。

進歩を掲げるならその前身となる遅れた何かが必要になる、
革新であれば変えるべき何かが必要になります。

あらゆる知識も情報も基本的には前提から生まれるもの、
特に現代のように長い歴史を積み重ねてきた人間社会は、
まったく新しい発見や創造(想像)はそう生まれない。

故に研究の最前線とかでもない限り、少なくともネットのような、
あらゆる知識や情報が高速で流れるような世界においては、
そのほとんどには前提があると考えて良いでしょう。

その主張の是非を問う前にその主張の前提となった基準を把握すれば、
そもそも主張が是非を問う価値があるかどうか、議論すべきかどうか、
それを比較的容易に判断できるようになると思います。

それを踏まえてじゃあ知識や情報によって主張されているものの、
真偽や是非の信頼性をある程度でも事前に測るためにはどうすればよいか?

まず、基準を曖昧にしたりぼかしたりまったく提示していないものは、
基本的に信頼性に欠けると考えたほうが良いです。

先にも話しましたがある主張には必ずその前提が必要になる、
逆に言えばある主張をするのであればその元となった、
前提となる基準が必ず存在しそれを提示する必要があります。

でないと主張の軸がきちんと定まらないからです。

その基準を否定するのであればそれは否定されるに足る、
何らかの要因が基準となるのだと判断した。

であればその基準を開示すればいい、否定されるべきだと考えているなら、
そう主張するということはそれが正しいと考えているはずだからです。

例えば現代では差別撤廃、平等実現がよく言われますが、
何を差別とするかの基準が曖昧だったり隠されていたりすることも多い。

また平等とはある基準を元に全ての存在を等しく扱うことを指しますが、
それ故に何を基準とするか、誰が基準を定めるかが極めて重要になり、
そこをぼかしたり隠されていることもある。

平等という言葉に違和感や忌避感を感じたことがあるのなら、
この前提となる基準の曖昧さを直感的に見抜いているのかもしれません。

ではなぜ曖昧にしたり隠すのかと考えれば、
要因は大きく3つしかないと考える。

1つめはそもそもその主張が他人や他集団の借り物に過ぎず、
自分で考え言語化したものではない場合。

つまりは特に何も考えず脊髄反射的に主張している場合です。

この場合、主張している大本は別にいると考えられるため、
是非を問うことも議論することも大抵は無駄になる。

自分でもその主張の前提等について理解できてない可能性が高いので、
まともな返事は得られず考慮するだけ無駄になることが多いでしょう。

2つめは自分でもそれが少なからず無茶な主張であると自覚している、
つまりは自分の主張に自信を持てない場合。

この場合は主張している本人がまだ揺らいでいる状況であるため、
その是非を問うことやより深い議論が考えをまとめる助けになり、
何かしらより良いものが生まれる可能性もあるでしょう。

最後、3つめは基準を公にすると都合が悪い場合です。

主張するということは少なからずより多くの人に知ってほしい、
考えてほしい、受け入れてほしいなどの動機があるでしょう。

であれば基準を隠す必要は本来ないはず。

それがより多くの人にとって正しい、最善だと考えるのであれば、
先に話したように基準を提示すればいいはずです。

それができないのであればそれはより多くの人にとっては不都合で、
だけどそれを受け入れてもらわなければならない理由がある。

自分やあるいは近しい人のためだけの、
都合が良い主張である可能性が極めて高い。

逆にそれ以外の人には大きな不利益になる可能性が高いのです。

ちなみに、こういう場合はとにかく基準や意図を知られるのが嫌なので、
その主張や主張の前後に発信するものはほぼ確実に目眩ましとなるため、
その手法を知っていると見極めるのは難しくない。

例えば感情に訴える比率が大きい、わかりやすい敵を作って分断する、
1つの具体的な要素にのみ焦点を当てて全体像をぼかすなどあります。

と、3つのケースについて話しましたが何にせよ言えるのは、
基準となる前提をきちんと深堀りすれば少なからず、
その意図を明確にできるということです。

もちろん、意図は1つであるとは限らない。

世のためになりたいと考えていても生活はしていかなければならないから、
ビジネス化したり援助を求めたりするような場合もあるでしょう。

1つの基準、1つの意図だけで成り立っている知識や情報、
主張などそうはないことを前提として理解したうえで。

自分が納得できる、賛同できる、より深く考えるべきと思える、
逆に受け入れられない、否定するべきだと思える、
何らかの要素があるかどうかをまず見極めることが大事。

そして、もし前提となる基準をひた隠しにしようとするのであれば、
その裏に不都合な何かがあるのだと考えることが必要になる。

頭から安易に受け入れずまずは主張やその前提となる基準の把握に努め、
冷静に判断を下したほうが良いと思います。

とりあえず基準がわからないうちは安易に判断しない、
基準がぼかされているのなら隠したい何かがある。

これだけでも意識しておくとより多くの知識や情報を、
うまく活用できるようになると思いますよ。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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