何かを得ることで幸せであり続けるのが難しいのはなぜか

人間社会は物質的な豊かさを追い求める歴史を歩んできたと思う。

普通に生きるということが難しい時代には物質的に満たされ、
誰もが文明的な生活を送れるようになれば人間は幸せになれると考えた。

それは現代社会の多くにおいて実現したように思う、
特に日本は世界でも稀に見る物質的な豊かさによる余裕と、
それによって大きく解放された精神的活動を可能とするようになる。

では、日本は世界でも稀に見る精神的に幸せな国となったのであろうか?

どうもそうではないらしい。

例えばギャラップ社の世論調査による幸福度ランキングであれば、
日本はここしばらく40位以上になってないようである。

また日本のZ世代と呼ばれるような人達の多くが、
日本の未来に希望を持てないといった調査もある。

これらの調査やアンケートが現実を正確に示しているとは思わない、
人数の少なさや調査方法や調査対象の問題などもあるでしょう。

ただ、一部であれどそういう希望のない考え方に囚われている、
幸せだと思えない人達がいるのは間違いないでしょう。

繰り返しになりますが日本は物質的には余裕ある社会を築いた、
失われた30年とも呼ばれる停滞期がいまだ続いてはいるけれど、
全体的に、他国と相対的に見ればまだ余裕ある社会だと言えると思う。

何かを得ることが幸せなら間違いなく全体的には幸せのはず、
なのに多くの不満や停滞感、閉塞感を感じる場合が多いのはなぜか?

その理由を1つに絞ることは難しいですがここではある考え方。

そもそも何かを得ることが精神的な充足につながるが間違いだった、
むしろ物質的な豊かさは精神的に満たされることを難しくする。

この考え方についてお話してみようと思う。

これを理解するには人間には2つの基準があることを知る必要があります。

主観的な基準と客観的な基準です。

主観的な基準とは主に無意識によって形作られる基準、
現在に対する認識とそれに対する反応から生まれるものです。

客観的な基準とは意識によって形作られるもので、
論理や想像力によって生まれるもの。

人間は生来的に無意識のほうが自身により大きく影響を与えるので、
精神的な充足を得るとは基本的に主観的な基準を満たすことになる。

ここで問題なのが主観的な基準は長期的に見ると、
客観的にどれだけ高い位置にいても必ずゼロになり、
加えて主観的な基準の客観的位置は一度上がれば下がらないため。

それ以上を満たすことが難しくなるということです。

わかりやすいようにお金で考えてみましょう。

例えば月収20万円で生活しているAさんがいたとする。

Aさんは20万円をやりくりして一月生活を送っていて、
それに慣れているし当たり前のものであると考えている。

精神的に満たされてはいない、だけど不幸を感じてるわけでもない、
主観的な基準としてはこの地点がゼロです。

しかし、ある時を境に月収が倍の40万円まで増えた、
より多くのお金を得ることができたその瞬間は、
主観的にも客観的にも大きな幸福を感じるでしょう。

月収の伸びに伴って生活水準も上がる、毎日の食事の質が上がったり、
趣味等に使うお金が増えてより多くのことができるようになった。

物質的に多くのものを得た。

だけど人間の脳、無意識を司る部位は一定の刺激に慣れる機能を持つ、
月収が上がった瞬間やそれからしばらくの間は幸せでしょうが、
それが続けばいずれ当たり前となり慣れて幸福を感じなくなる。

客観的な基準は20万から40万と倍になった、
それに付随して別の基準も軒並み上がった。

だけど主観的な基準はいずれゼロになるのです。

ここで重要なのは主観的な基準はゼロになったとしても、
その主観を支える客観的な位置は上がっているということ、
そしてこの上がった位置は下がらないということ。

一度、脳内に形作られた基準は基本的に失われることはないのです。

では、そんな状態で何らかの理由で月収が25万円に下がったらどうなるか?

月収20万円の頃と比べればそれでも増えている状態で、
客観的に見れば過去よりは恵まれた状態にある。

しかし主観的に上がってしまった基準からするとそれはマイナスになる、
マイナスになればそれは精神的な負荷となって負の感情を生む。

不幸になるということです。

つまり何かを得ることで豊かになる、幸せになるということは、
自分の主観的な基準を引き上げるということ。

主観的な基準が引き上がればそれ以上を得るのにさらに何かが必要になる、
逆に少しでも下がれば過去と比べてマシでも主観的にはマイナスとなる。

故に、何かを得ることは精神的な充足を難しくするのですね。

どんな人生にも少なからず波があるからです。

以上を踏まえて、じゃあ基準による精神の揺らぎを抑えるには、
より満足を得るためにはどうすれば良いのか?

まず、慣れるということが必要不可欠だと思う。

繰り返しになりますが人生には波があることのほうが普通、
精神的基準と現実が右肩上がりになってくれればそれが理想ですが、
実際には上がることもあれば落ちることもある。

先に話したように基準が上がれば落ちた時に必ずマイナスになる、
そのため大事なのは落ちた時に感じる精神的な負荷に慣れることです。

人生山あり谷ありの人が精神的に成熟し充足しているのは、
落ちることに慣れている、それが当たり前であると認識し、
また上がっていくことにも慣れているからなのですね。

逆に挫折知らずのエリートが客観的に見れば小さな障害につまずき、
大きく挫折を感じ浮上できないことがあるのは落ちることに慣れておらず、
這い上がる術を知らないため余計に精神的な負荷を感じるためと思われる。

ですから若い時、失敗してもある程度は許されるような状況の時に、
波を経験し上がったり下がったりを繰り返すことには大きな価値がある。

少なくとも精神的には大きく成長できるでしょう。

逆に波を知らない、あるいはあまり経験したことがない人が年を取り、
多くのものを背負うとちょっとした障害も過剰に感じるようになり、
極めて保守的になる、変化に付随するリスクを許容できなくなる。

現実という流れ、関係性による揺らぎが大きなストレスとなり、
精神的にどんどん追い詰められるようになります。

なので、とりあえず落ちるということは経験するのが大事に思う。

繰り返しになりますが脳の基本性質として上がった基準は下がらない、
故に落ちれる時に落ちておく、落ちることに慣れておく。

長い目で見れば上がり続けるより落ちた経験が活きてくることが多い、
落ちることに慣れていれば変化に寛容になれる。

変化に寛容になれればより上の基準を求めて自身を成長させること、
あるいは全く新しい何かに挑戦し新たな基準を1から形作っていくこと。

精神的な充足を感じるための変化に対するリスクの許容度が上がり、
充実したと思える、幸せを感じやすくなるのではないかと思う。

このことは特に若い人は意識しておく方が良いと思うのです。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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