【シャーマンキングから学ぶ現実を変える思考力その1】仏教的世界観の必要性と限界

これまで思考力が道を切り開くものだとの趣旨の記事をずっと書いてきた。

ここでいう思考とは意識的、能動的にできるものはもちろん、
無意識的な傾向、感情の発露や反応、衝動的なものも含む。

特に現状に満たされない思いがある、だからより良い何かを目指したい、
そんな思いがあるなら思考力は必須のものだと思っています。

この世界には格差が厳然として存在するからです。

それはお金など実質的なものもあれば無償の愛のような精神的なもの、
目指すべき尊敬できる先人との出会いやふれあいといった環境的なもの、
生まれながらに持つ生来的に有利な特質など様々。

生まれた時からそんな有利な何かを得て人より一歩先んじることもあれば、
誰もが生まれながらに持つはずだったものを失い後退することもある。

それはしょうがないこと、どうあがいても変えられないこと、
少なくとも自分では干渉できない類の問題が現実にはある。

それを踏まえてなお前に進みたいと考えた時に必要なのが思考、
数万年前の過酷な環境下で現代の人間の祖先、
ホモ・サピエンスが認知革命によって得た力だと考える。

その力は他にもいたホモ属を絶滅にまで追いやり、
世界に存在するただ1種の人間として君臨させた。

それだけの大きな力をうまく正しい方向性で使うことができれば、
現状どうであれひっくり返せないことはそんなに多くないと思います。

肉体的な性質に起因しない精神的、思考によってどうにかなるものなら、
少なくとも個々人にそう大きな差はないのです。

そう考えこれまで思考に関わるものに様々触れてきた。

心理学、脳科学、政治学、経済学、哲学、宗教、歴史などに加え、
神話や国々、地方独特の民間伝承やスピリチュアルな分野など。

思考に関連しそうな学術書や専門家の著作など興味の赴くまま、
手にとって読み続けてきたし今でもそれは日々の習慣になってる。

有料の講座とかセミナーなどにも手を出してみた、
それらは役に立つものもあればそうでないものもあり、
だけど総じて思考を、世界を広げる糧となったことは確か。

そして、誰にでも同じように訓練次第で使いこなせる力だとも思った、
思考のやり方次第でいくらでも現実を変えられるとは良く言われるが、
これは決して誇張ではなく大なり小なり現実を変える。

自分という現実をまず変えて引いては周囲も含めた現実を変えていく、
どんな分野であれ通用する本質的な思考の基礎力があると思います。

ただ、1つだけ問題がある。

学び理解することがそれなりに難解であるという点。

実際に活用しようという段階に至るまでが非常に難しい、
その段階まで行ければ人によってはそれこそ一瞬で、
現実を変えてしまうことも不可能ではないと思います。

だけど、例えば現状精神的に余裕がない人が先に上げた、
様々な分野から必要な部分を学び少なからず理解を示し、
自分なりの活用方法を見出すことができるかと問われれば。

それは困難だと言わざるを得ません。

このnoteでも思考力についていろいろ書いてきましたけど、
読み返してみれば小難しいし抽象的なところも多く、
あまり有用性とか伝わらないと自分でも思ってしまう。

何かもっと簡単に誤解なく伝える方法はないだろうか、
端的でわかりやすい表現とかないだろうか、
そういうエッセンスを含んでいてかつ実用的なものはないか。

そんなことを考えつつ漫画を読んでいた時、
これってすごいわかりやすいんじゃないかと思うものを見つけた。

武井宏之先生の漫画『シャーマンキング』です。

この漫画、シャーマンという言葉にあるように霊を用いて、
巫力という概念やオーバーソウル(以下OS)などの技で、
タイトル通りシャーマンの王を決める戦いを描いたもの。

霊という性質上、魂とか精神、心というものに比重が置かれた作品で、
調べてみたら元々はジャンプで連載されていたものの、
終盤近くで一旦打ち切られ後に完成版が出されたりと。

完結するまで二転三転した作品。

ジャンプで連載打ち切りになったのは何となく分かる、
正直少年漫画として考えるなら非常に分かりづらく、
おそらく万人向けするような作品じゃない。

見方によっては説教臭く感じる人もいるかもしれない。

ですが能動的に考えるということや感情の昇華の仕方、
自身のあり方の定めかたや進むべき方向性の見出し方。

ようは現実を生きていくうえでの思考力の活用法について、
難解な専門書とか本などと比べればはるかにわかりやすく、
ストーリー仕立てでテンポよく要所を伝えてくれる。

そんな作品だと思います。

なので、思考とか心のより良いあり方とかに興味があるなら、
まずはぜひ一度読んでみてほしいですね。

で、その中でもきっちり理解して見るべきと思う箇所が3つある。

  1. 『チーム・THE・連』対『明王』のバトル

  2. X‐LAWS(エックスロウズ)のマルコとラキストの相対

  3. 主人公、麻倉葉とラスボス、ハオをめぐる一連の物語の本質

この3箇所だけ理解して後は全体をざっと楽しみながら読んでいけば、
思考に対する理解が深まり思考力を活用するとはどういうことかわかる。

人によっては即座に実践に移ることも可能でしょう。

この記事ではこの3つの箇所の最初の1つである、
『チーム・THE・蓮』対『明王』のバトルを解説しようと思います。

なお、この記事ではシャーマンキングのネタバレがあるので気をつけて。

また作品内の基礎知識などなくともわかるよう最低限のことは話しますが、
用語の詳しい解説など知っているとさらにわかりやすくなると思うので、
良ければ先にWikiの用語解説など読んでみてください。


『チーム・THE・蓮』対『明王』のバトルを読み解く


では、本題。

まず、この漫画はシャーマンの王を決めるために500年に一度行われる、
シャーマンファイトを描いたものです。

とは言え、後半になれば何となく察しが付きますが勝者は決まっている。

ラスボスでもあるハオです。

ハオは1000年前に生まれた陰陽師であり人間を強く憎んでいるため、
シャーマンキングになることで得られる地球全ての記憶(情報)を持つ、
グレートスピリッツと呼ばれる霊を得て人類を滅ぼそうとしています。

1000年前は敗れたもののシャーマンキングの世界観においては、
死者蘇生や転生といった概念を現実に再現することが可能。

シャーマンとして卓越した才能を持っていたハオは死んでも転生でき、
500年後のシャーマンファイトの時に転生し再び生まれ落ちた。

しかしその時にもまた敗れ再び死ぬことになるのですが、
さらに500年後、漫画の舞台となるシャーマンファイトに参加するため。

主人公、麻倉葉の双子の兄として麻倉家に生まれ落ち仲間を集めるため、
世界中で暗躍し様々な怒りや憎しみ、悲しみを生み出すことになります。

シャーマンキングの世界には死後の世界、例えば地獄などがあるのですが、
死んだり地獄にいって修行したりするとシャーマンとしての力の源、
巫力が上がりできることが増えていく。

1000年の内、900年もの間を地獄で過ごしていたハオは、
その時点で作中に並ぶもののいない最強の力を持ってます。

主人公とその仲間たちはそれぞれがシャーマンキングを目指し時に衝突し、
願いや罪悪感など思う所を秘め最終的にハオを何とかすることを目標に、
シャーマンファイトを戦っていくことになるのですね。

このシャーマンファイト、本戦では3人チームでのトーナメント戦で、
チーム・THE・蓮はその仲間の1人である連をリーダとした3人。

道蓮(タオレン)、ホロホロ、チョコラブのチームです。

対する明王はガンダーラと呼ばれる勢力に属するチームの1つ。

この物語は人類を根絶し新しい世界を作ることを目指すハオ一派、
それを止めようともがきながら成長する主人公と仲間一行。

ハオによって生み出された悲劇に巻き込まれ怒りや憎しみ、悲しみを抱え、
正義の名のもとにハオを抹殺しようとする勢力、X-LAWS。

そして世界全体の救済を目指すガンダーラ。

この4つの勢力を中心に展開しガンダーラは物語後半に登場する、
作中最強のシャーマン勢力です。

シャーマン個人において作中最強はハオですが仮にガンダーラが、
転生されることを承知でハオ抹殺に動けば確実に成功させられる。

問題を先送りすることは可能なだけの力を持ちます。

その中でも武闘派と呼ばれるのがチーム明王の3人組です。

で、ガンダーラは名前の雰囲気からして何となくわかるかもしれませんが、
仏教的な世界観をモチーフにした勢力。

ハオが悪、X-LAWSが正義をテーマとして表してるのであれば、
ガンダーラはどちらにも依らず全体的な世界の救済を目指す。

作中では中庸と表現されてます。

で、この物語において中庸は強力な力を有するんですよ。

先に少し話しましたがシャーマンキングは霊と巫力を用いて戦う、
巫力とは言い換えれば精神力のようなもので、
精神のあり方が戦いに直に影響してきます。

で、精神っていうのは基本的に動き揺らぐもの。

ハオは1000年前に人間によって母を殺されたことがまずあり、
後に心を読む能力を身につけてしまうことで人間の醜さを知り、
人類に対する強力な怒りや憎しみを1000年もの間練り上げてきた。

故に作中において圧倒的な巫力を持っている、
あらゆる術を使いこなすことができるし、
強力なOSという技を扱うことができた。

ちなみに、OSとは霊をある物体に憑依させることで、
現実に干渉することを可能にする技。

基本的には霊の性質や術者のイメージによってその形が決まり、
霊でありながら物理的な現象を起こすことが可能になります。

ハオは練に練り上げた負の情念と生来的な才能も合わさって、
繰り返しになりますが最強のOSを生み出せる。

シャーマンファイト本戦に残るほどのシャーマンであれば、
各々の持つ強い思いや覚悟、イメージに応じて、
巫力の許す範囲で強力なOSを生み出すことができる。

言い換えれば自分にある強い思いの分だけ強いOSを生み出し、
それは他者に対する強い干渉力を持つ。

心とは基本的に関係性であるということをOSは表している、
自分と相手の関係性によってもシャーマンの戦いは左右される。

まさしく心と心のぶつかり合いを物理的に描いたのが、
シャーマンキングという作品なわけですね。

ですがガンダーラ、仏教的世界観はその逆を行くんですよ。

仏教とは、中庸とはどういう教えであるのかを突き詰めれば、
世界から断絶し個としての自分を確立することで、
外からの影響に揺らぐことない心を手にする。

あらゆる苦しみから解放されることを目指すもの。

自分の内にある全ての心は外からの影響によって生まれた幻に過ぎない。

それはハオのように外側に向けた強力な心の力とは真逆なもの、
自分という心に影響を与えるあらゆるものを無として受け流す力。

故にガンダーラは巫力無効化、OS無効化という基礎能力を全員が持つ、
OS同士の勝負において一方的に相手の能力を無効化できるのです。

とは言え巫力無効化も巫力を用いて行うものなので、
あまりにも相手の巫力との間に差があれば無効化しきれない。

ですが、ガンダーラ全員を合わせた巫力はハオ個人の巫力を上回るため、
作中において勢力として最強なのはガンダーラなわけですね。

話がそれましたがつまりガンダーラは仏教的世界観に生きる、
中庸であるために巫力無効化という力を持っていた。

チーム・THE・蓮は相手の能力を見極めるためまず蓮1人で戦いますが、
巫力無効化の前に苦戦を強いられるのです。

しかし、蓮は新しいOSによって雷を生み出し巫力無効化を打ち破り、
相手にダメージを与えることに成功する。

ですが、ここは読んでもイマイチ分かりづらい、
以下にその箇所を引用してみましょう。

かつてのオレは常に敵をうちのめす事のみを考えて生きてきた
だがやがてオレの前にたちはだかる「奴」が現れた
「奴」には何をしてもオレの攻撃は通用しない
全て風や水のように受け流してしまう「奴」の巫力に勝つために
幾度の敗北を繰り返し至った道はただひとつ
敵をうちのめそうとするこの弱き心を殺す事
それ即ち己に勝ち敵に全てを与える事
(中略)
壊す力ではない与える力
自然と一体となる巫力

シャーマンキング25巻

奴とは主人公、麻倉葉のことです。

蓮は物語前半で葉と度々衝突するライバル的な存在なのですが、
何だかんだいつも一歩前にいかれているのですね。

その原因が葉の風や水のように受け流してしまう性質、
中庸に近いあり方にあると考えた。

で、それを乗り越えるにはどうすればいいかと考えて至ったのが、
壊そうとする、力で排除しようとする弱い心を殺すこと。

壊す、排除したいというのは全てを自分の思い通りとしたい、
自分をさらけ出し相手にまず与えるということができない。

ようは相手を信頼できない、繋がれない、そんな恐怖を乗り越えて、
まず自分から与えようという覚悟を示しOSを生み出した。

与えるから与えられる、自然の法則と一体になったことで、
巫力無効化を打ち破ったということです。

先に話したように中庸、仏教的世界観に生きる相手に、
どんな心の力も無意味です。

故に心の力によってのみ生まれるOSはガンダーラには絶対に通用しない。

中庸は外からの影響によっては揺らがない、
心によって生まれる全ての影響を幻とすることで、
自身とその心を確立しているから。

どんな強い情念であっても動かせずむしろ無効化される、
だから心で動かそうと考えることが間違い。

心は動かない、だけどそれが物理的な力なら話は別。

殴られたことによる怒りや憎しみは受け流せ心を動かさずとも、
身体は痛む、直接的な影響を消すことはできないでしょう。

OSは霊と巫力、つまりは精神的な力であるためそれ自体は無効化される、
だけどOSによって生まれる物理的な力、自然の力は無効化できない。

OSという心の術で雷という自然的な物理現象を生み出すに至った、
故にダメージを与えられたというのが世界観の中の理屈ですね。

最終的にはチーム・THE・蓮のメンバーホロホロが仲間をやられた、
正確にはやられたフリをしてたのですがそれを見て覚醒し、
同じく自然の力、氷を生み出す力を用いて戦う。

明王メンバーは巫力切れを起こして敗退という決着を迎えます。

『チーム・THE・蓮』対『明王』のバトルから見る仏教的世界観の必要性と限界


さて、では以上の戦いから思考力、現実を前に進めていくうえで、
必要となる何を見て取れるか?

仏教的な世界観の必要性と限界です。

これについてお話するにはもう少しシャーマンキングの世界観、
あり方について深掘りする必要があるのでまずそこから。

お話してきたようにこの物語におけるシャーマンの戦いは、
心のあり方によるぶつかり合いです。

これは現実においても同じ、例えば喧嘩をしようと思えば、
喧嘩するに足る心の動きが必要になるでしょう。

人間社会におけるぶつかり合いは基本的にまず心がぶつかる、
その後に直接的、間接的かはともかく現実を通した動きが生まれる。

そのあり方をシャーマンキングという作品はより視覚的に、
わかりやすく書いているというイメージです。

そしてOSとは心の動きをそのまま現実化させる手段とも言える、
魂という心がそのままの状態で現実に残っていて、
その力を借りて能動的に心のまま現実に干渉するのですね。

霊障、物が勝手に動く、何かしらの物音が聞こえるみたいなのを、
自分の心を用いてバトル漫画らしく武器などとして描く。

あるいは呪いをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。

日本においては呪いの藁人形、丑の刻参りなんかが有名で、
現代においては創作以上の意味を持ちえないでしょう。

ただ、個人的には藁人形を用いて人を呪い殺すことは可能だと思ってます。

話し出すと長くなるので詳しくは触れませんが、
それは特殊な力を用いるとかではなくて、
心、引いてはそれを生み出す脳の性質を用いた方法です。

現代で再現するとなると相当厳しい条件をクリアする必要がありますが、
昔の日本であればそこまで難しくなかっただろうと思う。

丑の刻参りという物語は完全な創作だったわけではなくて、
実際に藁人形を用いた呪いという概念で人死が出てしまい、
それ故に明確な物語として現代まで残ったと考えてます。

シャーマンキングはこういう人間社会特有の心と現実の関係性、
そこから生まれる結果をより大げさに表現しているもの。

心が動くから体が動く、体が動くから周囲に干渉できる、
干渉できるから現実を動かすことができる。

つまり心が現実を動かすということをより大げさに、
だけど本質はそのままにファンタジックに描いたのが、
シャーマンキングという物語であり世界観なのです。

それも良く練られた世界観で例えばOSは霊が見えないない人には見えない、
だけどOSから物理的に干渉は受ける。

これは心の力を活用する術、より高い思考力を発揮できる人と、
その術を知らない人とでは現実に起こせること、
現実に起こったことから受ける干渉の度合いが違うことを表している。

幽霊の正体見たり枯れ尾花、霊の正体が何でもないものとわかっていれば、
受ける衝撃も少なくてすむでしょうが本気で信じていれば精神が疲弊し、
肉体もそれによって強く影響を受けてしまうようなものです。

信心深くない、心という存在そのものに懐疑的な人、
例えば心は所詮脳が作り出すただの現象に過ぎないとか、
そういう考え方の人に対してはOSの干渉力は小さい設定もある。

物理的な現実と人間社会特有の心による動きの関係性をうまく描いてます。

この前提を踏まえて改めてチーム・THE・蓮と明王のバトルを紐解くと、
先に話したように明王とはまず仏教的世界観によって中庸、
善にも悪にも依らずありのままの世界を受け入れ救済する性質を持つ。

それ故に外からくるあらゆる心の動きの干渉を受けない、
それが巫力無効化という技として表現されていた。

この巫力無効化は現実的に言えば感情の防御法。

現代社会ではあらゆる雑念がありSNSなどを通じて、
日々意識しているか否かに関わらず受け取ってしまう。

それに心乱され自身の行くべき方向性が乱れ感情は振り回され、
心があるが故の様々な苦しみを継続的に受けてしまう。

仏教はそういう受けることで揺らぐ心から生まれるもの全ては、
つまり精神の因果関係によって生まれる全ては一切空、
実体のない空(むな)しいもの、偽物とする。

そうして外の影響から自身の心を断絶させ何ものにも揺らがない、
因果関係を断ち切り動かない静の心を目指すという教えである。

これは現代を生きるうえで非常に重要な考え方で必要だと思う、
先に話したように自覚等に関係なく莫大な刺激を現代は叩き込んでくる、
その全てに心を揺らがせついにはその揺らぎが自身のものになってしまう。

苦しみこそが本質という思考になってしまえば自暴自棄になる、
言動はずさんになり負の結果を引き寄せやすくなるからです。

特に、幼少期など心が意識に守られてないむき出しの状態の時に、
心の傷になるような影響を受けてしまうとそれが後々まで残り、
ちょっとした刺激で再燃しマイナスの動きが生まれてしまう。

結果もマイナスに引きずられるというのはよくあることで、
そういう自分の意志が及びづらいところで受けた影響に、
苦しんでいるような人ほどまず仏教的な世界観が必要不可欠。

周囲から心を断絶させまず自分だけで自分を確立させること、
因果関係の鎖を断ち切ることが大事であることは確かです。

しかし仏教的世界観には限界がある。

周囲から断絶し何ものにも流されない静かで動かない心を得るとは、
逆に言えば何ものにも影響を与えず動かせないということを意味する。

つまり、仏教的世界観を突き詰めれば最終的に、
外の世界に対する影響力の一切を失うんですよ。

これを表す仏教の開祖、ブッダのエピソードがある。

ブッダは元々、民衆の苦しみを直にその目で見て、
現実にある苦しみの多さに心を揺さぶられ救済のために出家し、
修行に明け暮れ心を制御する術を得る。

それが仏教という教えとなって結実したのですが、
その後、ブッダは自分から仏教を教えることはしなかった。

教えを請う人が頻繁にやってきたからじゃあ教えようとなった、
聞かれたから答えた、だけど聞かれなければ答えないし、
時に的はずれな質問に対しては沈黙で答えたとも言われる。

元々は民衆の苦しみを救済するために豊かさの全てを捨て出家したのに、
いざその方法を体得したら自分からは救済に動かなかった。

矛盾してるように思えるかもしれませんが仏教という教えの性質上、
これは当然のことでありむしろこのエピソードが、
ブッダが仏教的な悟りを開いた証だと個人的には考える。

ブッダは一切空、この世の全ては因果関係によるまやかしであり、
その全てから解放された時に心の苦しみから解き放たれると説いた。

仏教では苦しみがある限り輪廻転生し後世に持ち越されるとされますが、
空を悟ればそこで輪廻が切れて苦しみのない世界、極楽浄土に導かれる。

何ものにも煩わされることはない世界にいける、だけどそれは同時に、
何ものにも影響する意志、心の動きを失うことを意味します。

ブッダは悟りを開いた、少なくとも誰よりも仏教的な世界観を体現した、
故に世界との因果関係から生まれる一切の苦しみから解放された代わりに、
世界を動かす(原)因となる意志をも失ったのだと考えられるのです。

人間社会は心と現実の間にある世界。

仏教的世界観の中で生きれば確かに心は安らぐかもしれない、
何ものにも心乱されることはなくなるかもしれない。

でも現実は心の動きだけで生まれるわけじゃない、
自分の心のあり方に関係なく例えば災害などによって、
周囲の環境が一変することもあるかもしれない。

それでもなお心動かず平静で穏やかにあれるかもしれませんが、
それで現実的な問題が解決するわけではない。

現実を動かし問題を解決したり何かを創造するのは、
いつだって自然の法則、そして人間の動こうとする意志だけです。

ようは、仏教的世界観には現在を整える効果はあっても、
その先の現実を歩んでいくための力が欠けているのですね。

時に救済の教えを説きながらも仏教を極めていけばいくほどに、
現実をより良いものに変えていく力が衰えていく。

シャーマンキングはこの事実を端的な言葉で表している、
『チーム・THE・蓮』対『明王』の戦いの最後に、
パスカル・アバフという霊がバッサリ切って捨てている。

中庸は現実の前に無力なんだよ

シャーマンキング26巻

中庸、善もなく悪もない、何ものにも向かう意志を持たないものは、
決して現実を動かしていくことができない。

それが仏教的世界観の限界です。

ガンダーラのリーダーであるサティ・サイガンはそのことを理解していた、
世界の救済のために人類滅亡を望むハオを何とかしようと考えながら、
自身の役目はあくまでもそれを成す可能性のある存在を導くことと考えた。

自分ではせいぜい問題の先送りが限界だと自覚していたのです。

何ものにも揺るがない間違いなく強いと言える心を持ちながら、
それはあくまでも孤独な強さであり関係性である現実において、
一切の影響力を持たない断絶されたあり方。

それが仏教という教えでありその教えをわかりやすく描いたのが、
シャーマンキングにおけるガンダーラという勢力のあり方でした。

そんなガンダーラの中庸の中の武闘派と表現される明王に対した、
主人公の仲間、チーム・THE・蓮の面々が未熟ながら成長し、
現実を動かす自然の力を持って中庸を打ち破る。

『チーム・THE・蓮』対『明王』の戦いとは現実と中庸、
関係を進めようとする者と関係を断ち孤独な世界に生きる者。

両者の決定的な違いを描いているのだと解釈しています。

そしてこれは思考力を発揮するうえで非常に大事なことを示す。

仏教的世界観、自分は自分として周囲から断絶させることは、
繰り返しになりますが周囲の影響を受けやすい現代において、
特に重要なスキルの1つであるでしょう。

ですが、それだけで現実は動かない、現状を変えることはできない、
自分を自分で確立しながらどのように世界と向き合っていくか。

自分と現実の関係性をどのように進めていくかを考えること、
諦めずに考え続けることの大切さを示しているのだと思います。

ようは、現実を動かすには順序が大切なのです。

仏教的世界観は最初の一歩、現実に揺らぎ自分を見失った者が、
まず自分を確立するための過程として通る道であるのですね。

それ以降にどういう考え方をすればより良い道を見いだせるのか、
その続きを描いているのが冒頭でお話した残り2つの箇所なのですが、
今回の記事はとりあえずここまでです。


ありがとうございました。

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