理想の社会や人生は求めるほどに遠ざかるのかもしれない

どうすれば理想の社会になるかと考えできることをやろうとする人達がいる、
社会みたいな大きな枠組みでなくとも個人として充実した人生、
理想の人生を送るにはと大抵の人は考え行動するでしょう。

後世にまで残る偉大だと呼ばれた人達が多くの視点や思想等を残してもいる、
だけど、それだけのものがありながら今だに幸せとは何か、
理想の状態とはどういうものかについて明確な答えは出ない。

答えらしきものが見出されてもそこまで効果がなかったり、
一時的なもので崩壊してしまったり、
実現可能性が低すぎて現実的じゃなかったりする。

時には答えを提唱する人自身がそれに反したり実践できなかったりで、
客観的に不幸としか思えない人生を送っている(いた)こともあります。

これまで何百、何千年もの間、理想を考えてきたであろうはずなのに、
なぜ現代に至っても答えが出ない、あるいは浸透しないのか?

個人的に思うのはそもそも前提が間違っているのではないかということ、
理想という状態が明確な基準として存在するという認識が、
理想を求めることが逆に理想を遠ざけているのではないか。

と言うのも、よくお話することですが人間社会というか現実とは、
あらゆる要素の相互関係、作用によって成立する流動的なものです。

関係のあり方、作用の仕方によって常に形を変えていくものである、
故にそもそも明確な形を持たないものだと考えます。

だけど、そういう流動的なあり方を明確に認識する力は人間にはない、
流動的な現実はおぼろげに感じることしかできないもの。

どれだけ人間社会が多くのものを積み重ねたとしても、
少なくとも個人として主観的に認識することはできない。

人間以外の命あるものはそういう流れを流れのままに感じて、
あるがままにあるという状態で存在するものだと思います。

しかし、ある時に人は認知革命を起こしそういう感じる部分、
人間であれば無意識、動物であれば本能などと呼ばれる思考とは別に、
意識的に何かを認知、認識する能力を獲得した。

問題だったのはこの意識的な思考は能動的であることができる、
想像力を駆使して実態のないものをあるものとして認識できたりと。

特殊な認識方法で現実を観測することが可能だったけれど、
そこまで能力が高くなかったところにあります。

知ったこと、感じたこと、認知したことを元に何かを考える能力は、
意識より無意識の方が圧倒的に優れていたが故に、
無意識の考えること、感じることは意識にとって過剰なのだと考える。

意識では流動的な現実をありのまま認知し感じることにより生まれる、
あらゆる感覚や思考傾向を受け止めきれないけれど、
意識も無意識も自分の中にある思考傾向なために。

無意識の思考を意識が受け止める、影響を与えられることは避けられない。

イメージとしては自分の筋力では持てない重い荷物を、
それでも持たなければならないことを強制されているような感じだと思う。

だから流動的な現実の一部を切り取り意識の認識力で受け止められるよう、
物事を矮小化しさらには停滞させる必要があった。

流動的な現実の一部を停滞させ切り取ることで流れず明確になったもの、
それが基準と呼ばれる概念だと考える。

基準を設けることで人間は流動的な現実に対する解像度を上げて、
それを組み合わせることで少しずつ理解を深め、
自分達が扱える知識や技術などを構築してきた。

  1. 現実の一部を切り取り明確にし基準を設ける

  2. 基準を軸に現実の解像度を少しずつ上げて理解を深めていく

  3. 理解が深まった複数の要素を繋ぎ合わせることで疑似的な現実を構築する

  4. それを元に実験や観測を繰り返し現実に適応する知識や技術を生み出す

この流れをひたすら繰り返すことで多くのものを生み出してきた、
人間の歴史とは言わば現実という流れを理解し流れに干渉する過程であったと思う。

この前提を元にするならそもそも基準とは結果ではなく過程である、
現実の流れを理解しより現実に適したあり方を模索するために、
一時、現実の流れを停滞させるための手段である。

故に、理想という基準は現実では決して成立しえない、
停滞的である限り常に流動する現実には適応されないからです。

ある基準で停滞した社会はそれがどれだけ理想的に思えても、
本質は流動的な現実の前で必ず齟齬や軋轢を生み出し、
変化する流れに振り回されて砕け散る。

流れに停滞的な基準を押し付けようとする試みそれ自体が誤りである、
であれば常に最善を求めて考え行動する、流動的であり続けることこそが、
本当の意味で理想なのではないかと思うのです。

とは言え、先にお話したように人間の特に意識的な認識力は、
そこまで能力が高くない。

数万年、脳の構造が変化していないとまで言われるほど、
人間の基礎スペックにそこまで大きな変化がないことも踏まえるなら、
常に流動的な思考を展開するのは人間とっては大きな負荷となる。

だから理想、絶対的で普遍的で明確な基準を求めるのでしょうが、
お話してきたように流動的な現実に停滞的な基準は適応されない。

それを解決する方法がつまりは集団の構築だったのだと思う、
お互いがお互いを支え合う社会であったように思います。

流動的な現実の中で流れを扱う術を構築していく過程で、
ある人が疲弊し動けなくなっても別の人がそれを補い、
またそれを別の人がと流れるように動いていく。

そうしてある程度、社会が安定し多くの人に余裕が生まれると、
意識的な個人としての側面が顔を出しだけど繰り返しお話したように、
大した認識力を持たない個人は自分に都合が良い状況を構築するために。

現実を停滞させる基準とか枠組みを求めそれを他者に、社会に押し付け、
全体が停滞的になり現実の流動性との齟齬や軋轢により劣化し、
余裕が失われ生産力や環境等が悪化していく。

理想というのもつまりは都合が良い状況のために押し付けられる、
基準や枠組みの1つとも言えると思います。

結果、大きな混乱を生みそれを解決するためにまた流動的に、
最善を模索していくということを繰り返してきたのだと考える。

そう考えると現代の日本は余裕が生まれたが故の個の解放と、
それによる社会基盤の劣化の過程にある段階だと思う。

このままいけば全体的に大きな崩壊が起きて混乱が生まれる、
この流れ自体はもう避けようがないように思います。

大事なのは行くところまで行って劣化や混乱に自覚的になった時、
それを解決するために常に最善を模索し続けるために思考し続ける、
そのための力を1人でも多くきちんと備えておくこと。

流動的である以上、現実はより大きな力の流れに沿って動く、
現代は劣化と混乱に向かう力の流れが圧倒的に強く、
それを個人や少数で変えることは容易でないというかおそらく不可能。

それでも個人として理想の社会、理想の人生のためできることを考える時、
以上のようなことは意識しておくのが大事だと。

そのように思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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