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シュガー・ラッシュ:オンラインについて考える

荻上チキさんのセッション22で激賞されているの聞き、興味をもち鑑賞した。
結論を言うと、とても良かった。
批評性とエンタメの両立。アニメ映画におけるマーケティングの教科書的な作品になるのではないか。以下、その魅力を詳述する。

結論は
シュガー・ラッシュ:オンラインには、3つの軸が存在する。
女性のロールモデルという軸:ディズニープリンセス、シャンク
友情と別れという軸:ラルフとヴェネロペの関係性
擬人化した世界=デザインという軸:インターネット世界

これらの軸が、絶妙のバランスをとることで、
外連味/共感
批評性/エンタメ
マニアック/大衆性
といった両立し難い要素を上手く両立させている。
というものだ。

早い話が、シュガー・ラッシュ:オンラインは、小さい子供がいる家族連れが見ても楽しめるし、私のようなアニメ映画を通じて社会批評をしてやろうと手ぐすね引いているファンをも満足させることのできる作品なのだ。

批評性とエンタメの両立:このポジションが最も多くの観客を呼び込めるポジションであろう。このポジションを取りたいと思う映画プロデューサーは多いだろう。だが言うは易し行うは難しで、相反する要素を両立することは容易ではない。わかりやすいけれど何も残らない映画。説教くさくて楽しめない映画。取ってつけたような不自然な展開がある映画…失敗例には枚挙にいとまがない。

批評性とエンタメを両立するポジショニングが取れること自体、並々ならぬバランス感覚の為せる技であり、それ自体がアートであると言って良いくらいだ。否、経営がアートであるようにマーケティングもまたアートであるのだろう。そのことを本作品は教えてくれる。

シュガー・ラッシュ:オンラインはいかにして、この難しい舵取りを成し得たのか。

一つだけでも作品の目玉になりえる要素を3つ並べ、しかもその各要素はお互いにシナジーするように配列することによって である。

3つの要素とは何か。女性のロールモデル、友情と別れ、擬人化したインターネットの世界の3つによってである。それぞれ単独では、説教くさい、陳腐、薄っぺらいと言われかねない素材をうまく組み合わせ、現代社会を生きる私たちに問いを投げかける極上のエンターテイメントに仕上げている。

以下、シュガー・ラッシュ:オンラインでは如何にしてこれらの要素を扱っていたのか、また、互いにどのようにシナジーしているのか書いてみたい。
女性のロールモデル
女性のロールモデルの提示は、シュガー・ラッシュ:オンラインにおける重要な要素だ。これは、主に勢揃いした過去のディズニープリンセス達とシャンクによってなされる。ただし果たせる役割は正反対だ、上手く住み分けしているとも言える。

勢揃いした過去のディズニープリンセス達が担うのは、話題性とディズニー作品への自己批評だ。
過去のディズニープリンセスが一堂に会するシーンにはものすごいインパクトがある。しかも、その上ヴェネロペとの会話では、ディズニー作品のヒロインのお約束について、メタ的な会話を交わすのだ。

ラストシーンでラルフは、ディズニープリンセス達によって助けられ、白雪姫の衣装を着せられる。これも際どいけれど、ギリギリ安全な領域でジェンダーに言及する表現といえよう。

対するシャンクが体現するのは、ヴェネロペが手本とするべき、新しい(この形容詞自体陳腐なものになってしまったが)女性像である。シャンクはスローターレースというゲームの中で、プレイヤーの邪魔をする荒くれ者の一団のリーダーである。シャンクスの立ち振る舞いが素晴らしい。
相手の話を聞きながらも、自分たちの役割を全うすることを目指すメッセージを発信し続ける今風のリーダー。若者言葉を使いながらも、親父ギャクに寛容というか自然体でそれを楽しむ度量。

近代社会における女性のリーダーシップについては久しく論じられてきた。しなやかで自然体のリーダーシップ。シャンクスの提示するのはある意味で古典的な女性リーダー像だ。目新しいものではない。だが、しっかりと魅力的に描けている。

過去のディズニープリンセス達の導きと、シャンクスの存在がベネロペを 私のヒーロー に守られる存在としてではない、自分の生きたい生き方をするように自立を促す。

インターネット世界のアニメーションCGという条件が、シャンクスの天才的なドライビングテクニックを存分に表現する。ディズニープリンセス達がそれぞれの得意分野を持ち寄ってラルフを救う。女性のロールモデル という説教くさくなりかねない要素をエンターテイメントとして高い次元に押し上げている。

友情と別れ
友情と別れ それがシュガー・ラッシュ:オンラインのテーマだ。いつも一緒にいた二人が、お互いが別々の人間であることに気づき、お互いのために離れることを選択し成長する。その痛み。こうした関係性は何も友情に限ったことではない。親子、恋人、夫婦、兄弟…普遍的といっていいテーマだろう。だから多くの視聴者に共感を呼び起こす。

主人公2人からそれぞれこのテーマがどのように展開されるかを見た場合、ヴェネロペにおいては、インターネットの世界に行き、女性のロールモデルと出会い、自分のやりたいことを見つけ、選択する過程ということになる。それについては、前項で扱ったので、ここでは主にラルフに注目しよう。

ラルフにおいては、自分の自滅的な部分(正しくはヴェネロペとの自滅的な関係性)に気づき、ヴェネロペのヒーローとしての自分 以外の自分のあり方を選択するまでがその過程となる。

ラルフとヴェネロペの自滅的な関係性については、物語全体を通じて繰り返し、反復される。
ラルフはヴェネロペのヒーロー=ヴェネロペから必要とされること (ヴェネロペから貰った 私のヒーロー というメダルに象徴される) に誇りを持っている。だが、彼がヴェネロペのヒーロー として振る舞うことは、しばしば、周囲に厄災を振りまく。

物語冒頭、彼は、退屈するヴェネロペのためを思って、シュガー・ラッシュの中に特別なコースを作る。だが結果として、シュガー・ラッシュのコースはめちゃくちゃになり、ゲーム機のハンドルが取れて、ゲーム自体が廃棄される危機を招いてしまう。

シュガー・ラッシュのハンドルの競りにおいては、ヴェネロペの手前、いい格好を見せようと思ってか、競りのルールをよく知らずに参加し、最後はヴェネロペと互いに値段を吊り上げて、とんでもない金額で落札してしまう。

自分の元を去っていく決断をしたヴェネロペを連れ戻そうと、スローターレースにウイルスを仕掛けることを思いつく。ウイルスはヴェネロペの不安定な部分をコピーしてシステム全体にばらまくことで、スローターレース全体をダウンさせてしまう。

ラルフがヴェネロペのためを思って(というのは建前で実はヴェネロペに感謝されたいという自分の欲望をかなえるため)行動すると、ヴェネロペの不安定な部分が強調されて周囲に撒き散らされ、大迷惑を被ってしまう パターンが繰り返し反復されている。

つまりは全ては共依存に陥っている二人の関係性を描く巨大なメタファーなのだ。お互いが一緒にいるとお互いのためにならない。こうした関係に陥った二人はどうしたらいいのだろうか。

セラピーを受ける と劇中では表現される。シュガー・ラッシュ:オンライン自体がラルフとベネロペのセラピーの物語なのだ。

二人のセラピーは、以下のように進展する。
まず、自分たちの自滅的な関係性を認識する。次にそれを変えようと奮闘する。最後に、お互いの愛情を確認し、愛し合いながらも別れる、愛しているから別れても大丈夫という選択を下す。
ヴェネロペがラルフから去るシーン、ヴェネロペは姿見えなくなるまで振り返り、手を振り続ける。そしてついには見えなくなる。この一連のシークエンスに最後にたどりついた二人の関係がはっきりと表現されている。直接的に隠喩する とでも呼びたくなるような表現がここにある。このバランスが素晴らしい。
この直接的な暗喩表現にCGを存分に使いインターネットという世界を擬人化した造形が大きく関わっていることはいうまでもない。

ラルフの弱点 など、一目でその本質がわかる造形がいたるところに見られる。何しろラルフ自身が、ラルフの弱点 を見て自分の自滅的な部分に気がついたというセリフがあるくらいなのだから!

擬人化したインターネットの世界
物語は全編を通じて、擬人化したインターネットを舞台にして展開される。そこに出てくるデザインがいちいち素晴らしい。クスッとする機知に飛んだ見かけで過不足なくその物事の本質を表現している。要するに機能的なのだ。このデザインがあって、ジェンダー論は嫌味なく、成長物語は陳腐に陥ることなく語られた。

シュガー・ラッシュ:オンラインは、ディズニー作品への自己批評を含んだ女性のロールモデルの提示、別れに伴う成長、機能的な造形という3つが緊密に結びつき、一つの世界を作り上げることに成功した結果、批評的でありながら、エンターテイメントとしても優れたものに仕上がった稀有な作品である。

#シュガーラッシュオンライン #映画 #批評 #感想 #荻上チキ #セッション22

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