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【小説】奔波の先に~井上馨と伊藤博文~#144

25 次に目指すもの(3)

 東海道をすすみ、興津と言うところに着いた。馨は東海道を利用する時、この地の風景が気に入っていたことを思い出した。すぐ近くには海水浴のできる浜もあり、山もある。温暖でいて、暑くもない。しかも富士山もよく見える。
「『田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ』という山部赤人の歌はこのあたりで詠まれたものでございます」
 案内の地元の人のこの言葉が、馨の胸に刻まれていた。東京から少し離れ、かと言って遠くというわけではない。いつかはこういう地で、のんびりとするのも良いものだろう。
 そうして11月9日に無事に東京についた。この巡幸で各地の民に直に接することで、西南の役のインフレーションや不作もあり、疲弊しているのが見て取れた。そのため民力の慰撫、愛養と官の節約が帝から勅令として出された。

 その頃、大阪で一つの事件が明るみになろうとしていた。盟友である、藤田伝三郎が警察の取調べを受けることになったのだ。この事件は、不思議な経緯を経て、藤田伝三郎を始めとする藤田組の幹部と中野梧一は拘束されることに。
 贋札の使用が取り沙汰されたが、確たる証拠はなく、資産の増加に不正が有りとの尋問もあったが、これにも証拠はでてこなかった。
 そうしていると、井上馨が洋行から帰国した際にドイツから贋札を持ち込んだと、言われるようになった。これに、警視局の川路利良が指揮を取るという事態に発展していった。
 警視局が大阪の事件を取り調べる、管轄外の異例さにも関わらず強行された。
 大阪で十数枚、その他の地域も含めて贋札は百数十枚見つかった。しかし、藤田組と繋がる確たる証拠も、馨との繋がりも上がらなかった。そうなってくると、この事件を警察に訴えた、木村眞三郎という人物の証言だけが頼りと言う事態に、疑問を持つものも出てきたが、警視局の幹部の一部は取り調べを強硬に継続することを主張した。

 そうなってくると、川路達強硬派は薩摩の出であり、長州の顕官、商人を好まず、足をすくうためにやっているのではと噂されるようにもなっていた。
 また中心人物の川路がヨーロッパに警察の視察のため派遣されるということになると、長州派の差し金とも言われることもあった。その川路はヨーロッパ視察中に体調を崩し、帰国すると病死した。
 この事件の落とし所も藤田組の犯罪を裏付ける証拠もないまま、世間に流布されるようになると、贋札の存在から紙幣の信用は落ち、政府としても解決を図るよう警視局に圧力をかける様になった。

 藤田伝三郎を始めとする藤田組の取り調べを東京で行うことになり、直に真偽を問われると、その目的が長州の政府官員とのつながりを調べる、ということが明らかになった。
 そして藤田は、木村が言っていることは、偽言に他ならないとはっきり言った。ただ主任の佐藤権大警部のみが、有罪を唱えるという事態に、責任者の大山巌もこの件の幕引きを考えるようになった。そして佐藤をこの事件から外すこととした。

 藤田たちも流石にこれ以上勾留することもできず、解き放たれることとなった。
 そして贋札事件自体は、その後真犯人が捕まり、木村は誣告罪に問われることになった。
 この事件に関して、馨は自らは動くことはせず、静観をしていた。しかし、川路の海外視察とその後の病死に関係していたのではと、ささやかれることになる。
 
 工部卿としての馨は、石川島造船所や長崎造船所などの視察を通して工業の発展に努めた。その際に京都に赴いた西本願寺にて、帰敬式を受けて超然という法名を受けている。
「そういえば、よく歳を取ると人間丸くなるといわれるが、わしの場合、年々気が短うなってる気がするんじゃ」
「井上さん、心の平穏得るため、仏に帰依されてはいかがですか」
「心にゆとりを持てるようになるかの」
「ふふふ、それは気の持ち方次第でしょうが。頼りにできるものが外にあるのは、気が楽になるとおもいます」
「そうかの。それではお願いします」

 外国の高官達が日本に訪問することが続き、その対応に追われた。日本には外国の要人向けの「迎賓館」と呼べるものはまだなく、ありあわせのもので取り繕っていた。
 新しい、工部卿官邸や工部大学校、延遼館といったものが舞台になった。そのどれも、専用ではないことや、作りの悪さが頭を悩ませることになる。その分の埋め合わせは、ヨーロッパで仕込んできた工部卿夫人武子や令嬢末子の社交術にかかることが大きかった。
「香港総督のヘンネッシーはこの工部卿の公邸を使うことになった。準備のため工部省の官員もより出入りすることになる。武さんもお末も手を貸してほしい。女子でないとわからんことも多いからの」
「それは大変でございます。使えそうな調度品を出しておきませんと。もしかすると貴方の骨董品の出番かもしれませんね」
武子が馨に微笑みかけた。おもわずドッキリしたが、冷静に答えた。
「掛け軸や茶碗や香炉にそれほどの出番はないと思うがの」
「たしかにそうでございますね。イギリスから持ってきたカーペットなどを点検いたします」
「そうしてくれ」
 実際準備は大変で、建物の不具合や装飾の良くないところを屏風などで隠し、持っているカーペットなどで不足した調度品は渋沢の家から借りてくる始末だった。
 馨はできたばかりの、東京商法会議所に大隈や松方とともに案内をした。渋沢の歓迎の言葉やヘンネッシーには益田が通訳で着くなど、皆の力を総動員して、歓迎をした。香港は清への窓口でもあり、琉球処分について理解を得ておかなければならない相手でもあった。
「今度は前のアメリカ大統領が来るぞ。こちらはもう少し盛大にやらにゃいかん。武さんもお末も今一度頑張ってくれ」
「お泊りはどちらに」
「延遼館じゃ。この公邸を使ったときは大変じゃったからの。渋沢の家でやってくれっていいたくなった」
「私どもも調度品はまだ整っておりませんしね」
「やはり、専用の施設を考えるか。それと、どんな客でも接待できる家を持つことじゃな」

 前アメリカ大統領グラントを横浜で、岩倉や伊藤たちと迎え、延遼館に案内した。その後は馨が主催して宴席を持ったり、陸軍の閲兵式を始めとした官の歓迎や私的な歓迎式典が執り行われた。
 とりわけ、帝が関心を示されて、浜離宮でのご会見や延遼館への行幸などで様々な問題についての助言をお聞きになった。特に財政上のことは印象的だったご様子だった。
 この一連の国賓の対応に追われたことで、きちんと規則として整える必要が身にしみていた。そこで馨は中心になって、待遇の規則である礼式を定めていくことにした。
  末子が皇后さまの通訳として、宮内省の御用を賜った。また女官たちに英語を教えるなどの活躍を見た。馨には、欧州遊学の成果が、目に見える形になったことも、誇らしかった。

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