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「井の中の蛙」が隔離されて思ったこと

日本の空気は美味しい。

無事にバングラデシュから帰国し、成田近くの某ホテルで強制隔離期間(バングラは6日間)を終え、その後自主隔離を経てようやく帰宅できた。

バングラデシュでのロックダウン期間もずっとホテル生活だったが、それよりも帰国後の強制隔離期間の方が精神的にくるものがあった。

強制隔離期間は一日が以下のサイクルで回り、3日目と6日目のPCR検査結果が陰性であれば6日目夜に出れることになる。

[9:00]検温・体調管理報告・朝ごはん配布
[11:00]昼ごはん配布
[16:00]夜ごはん配布
※接触を避けるため、弁当が外のドアノブにかけられる。水や布団シーツが必要なら内線で追加を頼み、同じくドアノブにかけてくれる。洗濯は宿泊が10日以内の場合手洗いとなる。

コロナ禍になり今まで以上にインドアな体質になっていた自分は、この単純なサイクルを×6回行うぐらい訳はないと思っていた。

ところが4日目には、10cmだけ開けられる窓から餌を求める鯉のように外の空気をぱくぱく吸うぐらいには"外の世界"を欲していた。

そんな気持ちにはなるまいと、事前に買っていたSF小説やスマホゲームがあったにも関わらず、そんなものでは「外へ出る自由」への欲求は満たされなかった。

ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の最終話で、ヒラマサさんが塞ぎ込むミクリに言った台詞が頭をよぎった。

面倒を避けて避けて
極限まで避け続けたら
歩くのも食べるのも面倒になって
息をするのも面倒になって
限りなく死に近づくんじゃないでしょうか?

根っから面倒くさがり屋な自分にとって、「引き籠る」状態は面倒ごとを断ち切れる幸せな時間だった。しかし強制的に「隔離」された空間の中では、外で”動いている”世界に対して自分だけ切り離されたような感覚があり、果たして生きているのだろうかという疑問すら感じた。ヒラマサさんのセリフが示す状態を、半強制的に追体験したのだと思う。

自分の意志で部屋に籠るのと、隔離されて外出の権利を奪われるのとでは全く心境が違った。普段は自由が与えられているからこそ「引き籠る」という選択ができるのであり、それがいかに精神的負担を減らしているかを実感した。


もう一つ、不運にも隔離中のホテルで火事が起きた。

入所して2日目の夜、突然ジリリリとベルが鳴りだしたので防災訓練でも始まったのかと思ったら、それが一向に鳴りやまない。

チャットしていた同僚が「外出てみようかな?」と言ったが、自分は「いやホテルの人に注意されるだろうし...」とあくまで強制隔離のルールに従う発想しか浮かばなかった。

しかし、「もし数分後にはすぐ外の廊下まで火の手が上がったとしたら、自分はどうする?」とふと考えると、4階の窓から飛び降りて無事なわけはないし、それ以前に窓を割る方法すら思い浮かばない現状を理解した。久しく決断が必要な状況に身を置いていなかった自分は、一気に血の気が引く思いがした。

幸いにも、その15分後に「初期消火に成功しています」とアナウンスが流れ、実害はなくボヤ騒ぎで終わった。

しかし大きな反省が残った。自分の身は自分で守らなくては。ここ最近の自粛期間の中で、決断のいらない楽な方へ流されていく癖が染みついていたことを痛感した。例のセリフのように、面倒ごとを避けて過ごすうちに”生きなくては!”という本能が薄れてしまっていた。

その後6日目に無事出れたので、空港近くの別のホテルへ移り自主隔離期間を8日間過ごした。本当は良くないが、自主隔離期間の夜中に散歩をしてようやく外の空気を満喫できた。

今までであれば汗でじっとりする夏の夜にぶらぶらしようとは思えなかったが、久しぶりに生温かい自然の風を感じれたことに感動がひとしおだった。やかましい蝉の声、田んぼ脇の歩道、星の見える空の下をゆっくり歩きながら「ああ生きてる」と思える自分はつくづく幸せ者なのだと思った。

これがバングラデシュだったら、ロックダウン抜きにしても安心して夜道の散歩はできない。この日本という国は、時々息苦しく感じることもあるけど、実はあらゆる権利が平等に与えられているのだ。一歩外に出てみると、日本の空気はいつだって美味しい。

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