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【映画レビュー】『異端の純愛』:いや、異端なんかじゃない!

 この映画に描かれていることが「異端」だとするならば、ほとんどの人は異端者になってしまうのではないかと思いました。いや、他の人のことはわからないですが、少なくとも私は異端者になってしまいます。一方で、「純愛」というのは、痛いほどよくわかります!

変態のように思えるかもしれないが

 映画は、三つの短編で構成されている。
 「第一話」:現実のパワハラ・セクハラ上司に耐えられない女性が、空想上の恋人と一緒にイチャイチャしてサディストのように上司の心をふみつけにする。ついには、素足で頭を踏みつけたり、路上で四つん這いにさせて椅子代わりにする……
 「第二話」:いつもクラスメイトの悪い女子二人にいじめられている男子高校生は、喫茶店で見かけた片腕を失った女性にとりつかれる。片腕の女性から、人を傷つけることの快感を教えられ、空想世界で復讐を楽しむが、最後には実際の世界で……
 「第三話」:子供の時から排泄は汚いもので、罪の意識を感じていた男性が、同じように極度の潔癖症で排泄すること苦しんでいるきれいな女性と出会う。二人は、排泄の場面を間近でしっかり見ることで受け入れることができるようになる。やがて、余分な感覚をそぎとっていく……
 どうだろう。言葉で書くとやっぱり異常な話かもしれない。変態のように思えるかもしれない。でも、この三つの話が、昭和歌謡のようなBGMに乗せられて、赤裸々に正面から映し出されるのを見ていても、嫌悪感のようなものをまったく感じることはなかった。むしろ、なんだか温かい気持ちになってきたのだ。

自分の中には同じ類のものがある

 三つの話の題材となっている、「サディスティックな妄想」「傷つけることの快感」「排泄に対する異常なこだわり」は、どれも、普通の人は持っていないと「されている」感覚かもしれない。でも、逆に言うと、誰もが「隠し持っている」感覚なのではないだろうか。もちろんまったくそのまま同じというわけではないが、同じような嗜好は持っているのではないだろうか。少なくとも、自分の中には確かにある。
 ありとあらゆる妄想をすることはしょっちゅうである。誰かを苦しめたいと思ってしまうこともある。美しい人が排泄などするのかというのは、子どもの頃だけでなく、今でさえなんとなく捨てきれない感覚である。あまりさらけ出すと恥ずかしいので、この辺でやめておく……
 もしかすると、この「恥ずかしい」という感覚が、自分を抑圧しているのかもしれない。もちろん、恥ずかしさがまったくなくなってしまったら、世の中はとんでもないことになるかもしれないが、「恥ずかしさ」のせいで、本当の自分をさらけだせないで悶々としたり、苦しくなったりするのかもしれない。
 腹の奥底にあって自分にとりついてしまっている欲望やとらわれを、ここまで正直にさらけ出してくれたこの映画に、ありがとうと言いたくなった。なんて純粋なのだろうと思った。
 そんなことを考えてしまったのだが、どうだろうか。

究極まで自分に素直になると

 しかし、この映画のすごいところは、心の底で抱えている「恥ずかしい」本当のことをさらけ出していることだけではない。それを究極まで突き詰めてしまっていることだ。走り出したらもう止まらないという感じである。
 それだって、決しておぞましいものにはなっていない。むしろ、純粋さがいっそう際立ってくる。
 特に最後を飾る、第三話の行きっぷりがすさまじいのだ。自分の本当の姿に究極に素直になろうとするとこうなるのか、という結末を見せられる。ぜひともご自身の目でご覧になってほしい。


 パンフレットに井口監督のこの作品に込めた思いや意図が載っていたのですが、共感できることばかりでした。監督のお名前はよく見かけていたのですが、作品は初めて見ました。他の作品もぜひ見たくなりました。
 皆さんは、この映画の内容、異端だと思いますでしょうか?



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