【映画レビュー】『デッドマン』:こんなふうに死を受け入れていけたら…
1995年の映画なのだが、25年以上ぶりに見直してみた。ストーリやエピソードはほとんど忘れてしまっていたが、当時に受けた印象はまったく変わりはなかった。それは、人間が死と向き合い、死を受け入れていく過程を、全編を通して描いた映画だ、ということである。
死が身近になっていく
映画の冒頭、ジョニー・デップ演じる主人公は、列車に乗って、秩序や知性とは反対方向にある世界へとどんどん近づいていく。たどり着いた街は、暴力と横暴があふれる無法地帯だ。説明的な描写はまったくないが、そういうことが見る見るうちにわかってくる。すでに死の匂いがぷんぷんしている。
その街で、主人公は、痴話げんかに巻き込まれ、身を守るために人を殺してしまう。しかし、自分も銃弾を胸に受け、瀕死の状態となる。そして逃亡生活が始まる。
主人公に殺された男の父親は、街を支配する金属企業の社長だった。かれは、プロの殺し屋を雇う。そのあと保安官も動かし、賞金もかけたため、あらゆる追手が、主人公の首を狙ってくることになる。
さらには、山の中でその日暮らしで強奪などをして暮らしている人たちも出てくる。
彼らの生活は死と隣り合わせだ。そして、実際に死や殺しが頻繁に生じてくる。映画の画面は死であふれ、死はもはや日常的なものになっている。
一方、主人公を救ったネイティブアメリカン「ノーバディ」は、主人公を詩人のウイリアム・ブレイクを勘違いする。このあたりのいきさつは、ジャームッシュ監督らしく、とてもコケティッシュでかわいらしいエピソードになっているが、省略する。
ノーバディは殺し屋ではないが、主人公がもうすぐ死んで魂の故郷に帰っていくものと考える。そのための道筋をつけようと手助けする。
殺しとは逆方向であるが、彼もまた死を積極的に受け入れることで、死の影を濃く背負う。
見ている私は、次第に主人公がどのように死んでいくのか、どうやってそれを迎え入れていくのかを、客観的に、少しずつ穏やかに見ていくことになる。
死は、普通、避けたいものとして悲しく描かれるか、特別なものとしてエキセントリックに描かれることが多い。だけれども、この映画は、死そのものを受け入れて、それをまさに映像全体で淡々と体現しようとするのだ。
粋でコミカルでカッコいい
とりたててストーリーがあるわけではない。散漫だというような映画評も見られる。
いや、それでも、次はどうなるのだろう、どんな場面が映し出されるのだろう、次の展開を期待して引き込まれてしまう。なんだろう、このおもしろさは。
ジャームッシュ監督作品の特徴でもある、シーンの切れ目ごとに挿入される暗転。ニール・ヤングの短くてかっこいいギターのフレーズ。ヘビーな内容の中に、ときどき混ぜ込まれる、クスっと笑えるとぼけたエピソード。
すべてが見事に調和して、小気味よく、観るものを載せていく。本当にかっこいいのだ。
死が怖いものではなくなってくる
死ぬことは怖い。私は、多分、ほかの人と比べても、恐れている。小学生のころに、死んだらどうなるのかが恐ろしくて、しばらくの間眠れなくなったことがあった。どうやって受け入れればよいのかいまだにわからず、とにかく考えないようにしている。
でもこんなふうに、当たり前のように死を受け入れていく映画を見せられると、不思議な感覚になる。もちろん、実際に死が目の前にきたら、悠長なことは言ってられないと思う。だが、この映画で、じっくりじっくりだんだんと死を受け入れていく様子を見ていると、死は当たり前のもので、怖いものなんかじゃないように思えてくる。
ジャームッシュ監督の魔法にかかったようだ。本当に不思議である。その秘密は、先ほど述べた、すべての要素が調和して淡々と進められていくスタイルにあるに違いない。「死」は、ジャームッシュ作品にぴったりのテーマだったのではなかろうか。
文章にして語るのがなかなか難しい映画です。そういう映画こそ、映画として価値があるのかもしれません。ジャームッシュ監督の魔法にかけられながら、死を受け入れていく旅をしてみませんか。
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