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毎日、ごはんがおいしいことをお母さんに伝えてみた。

最近、「大切な人を大切にできる」人に出会いました。
彼は、ご両親と頻繁に連絡を取っているようで
いつも楽しそうにご両親の話をしてくれます。

情けないことに、私は反抗期くらいから「おはよう」に答えていません。何事もしてもらって当たり前な気持ちの中で、ゆるやかに生きてきました。どこかでその生き方は詰まると思うけど、行けるところまでこのままでいこうとしてました。

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だけど、彼と話すたびに「大切な人を大切にできる」ことに惹かれました。
自分の在りたい「在り方」を言語化できず悩んでいた中で、これかもって刺さった感覚があったから。
だから、その夜から、本当に本当に小さなことだけど、ごはんが「おいしい」ことを声に出して伝えることから始めました。


なんと3500文字強もの長編をのろのろ書いてしまったので、お時間があるときに読んでいただけると幸せです。


1日目

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鶏肉が「柔らかくておいしい」と言ってみた。
何をおいしいって言ったらいいか困って、唐突に言ってしまった。
テレビを見ながら、お母さんの表情が少し変わったように見えた。

2日目

白身魚の西京焼きがおいしかった。
「これ、おいしいね」っていったら、お母さんが「これはねサワラっていうお魚だよ。魚へんに、春って書くんだよ。」と魚の解説をしてくれた。

3日目

お味噌汁においしいねと言った。
まだ、お母さんの顔を見て伝えることは出来なかった。

お母さんは
「そういえば隣のスーパーにうどんが無くなっちゃったよ。」
「お父さん、お餅食べると胸焼けするみたい。食べ過ぎだよね。」
と話しかけてくれた。
そういえば、雑談するのも久しぶりかもしれない。

4日目

あまりにもお腹がいっぱいで、ご飯を食べているとき、おいしいを伝え損ねた。おかわりをして、「おいしいね」と言ったけど、お母さんはサスペンスドラマに夢中で、おいしいねは完全にすべった。

伝えるタイミング、大切だ。
相手に何か伝えたいことがあるときほど。

思いたったときに、ちょこちょこ話していたけれど、想像力をはたらかせてみると、もっと寄り添った関わり方ができるのではないか
そんなよく聞く当たり前そうなことが、ようやく理解できた。

8日目

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ついに苦手なごはんが登場した。餃子を作ってくれた。
どうしよう、おいしいって言いにくい。

良さを見つけ出そうと探しまくって、今日もなんとかおいしいを絞り出せて安心した。

人と対峙した時も同じかも。
相手から学べるところを探す。やさしさを捉える。面白がる。
受け身で接することで、こんなにも見えるものがとても狭くなってしまうとは。
自分の姿勢次第で、こんなにも感じ取れるものが豊かになるとは。今日の餃子は偉大だ。

 * 

10日目

最近は、「おいしい」と言っても、お母さんからリアクションが無いことが多い。

何かに集中しているのだろうか。
聞こえていなかったのだろうか。
慣れてきたのだろうか。
なにを考えているんだろう。


しかし、リアクションが無いことを、ある日を境に「さみしい」とは思わなくなった。
相手を想い、何かアクションを起こすとき、喜びを感じるポイントは少なくとも2種類に分けられるんじゃなかろうか。

①起こしたアクションに対して、想像通りまたは、想像以上のリアクションが返ってくることに、嬉しさを感じる

②伝えるということ自体が喜び。
リアクションは自分のコントロール外なので、前提として期待しないでいられる。

お母さんの顔をみて「おいしい」と言えるようになってから、①から②へと移ってきた。


わたしは、相手を恐れて、コミュニケーションが取りづらいと感じる人に対して、よくリアクションを期待して、行動を起こすことがある。
直接向き合い、言いたいことを言わず、別の方向から株をあげようとしているのかもしれない。
でも、それはとても苦しくて、虚しさと自分に対する嫌悪感が湧いてきて、誰かに危害を加えているような気持ちになり、自分の殻に篭ってしまう。


今日は、殻に篭る前や、冬眠明けにどう動き出すかを、発掘できた気持ち。

・相手の気持ち、リアクションはコントロール外だと度々言い聞かせること

・ビビらなくても大丈夫な関係が作れるまでは、何かを伝え続けることに集中すること
(挨拶や感謝など、不自然でないものを会うたびに必ず言うことを決めて、伝え続ける)


「承認欲求があることが悪い」
「相手が喜んでくれるのを見たいがために行動することが悪い」
と言うわけではない。

14日目

「おいしい」を伝えるようになって、今日で2週間。
もう、顔を見て言えるようになった。

そして、何度だって言えるようになった。
おいしいと思ったその時に、おいしいを伝えたいと思った。

こころの中で憧れていた、在り方像に少し近づけたような感覚を得て、安心している。

「今この瞬間受け取った気持ち」を、「今」言いたいと噛みしめたのは、初めての経験かもしれない。
感情を伝えることに、時間の軸があることを考えたこともなかった。

大切な人を大切にするということ

今回たいしたことを始めたわけでもないし、2週間という短いチャレンジだったけど、小さな発見がいくつかありました。

そのなかで

大切な人を大切にするということは、自分の動きやすい居場所をつくること
なのかも。

という発見をしました。

家族というコミュニティに、自発的にアクションを投げかけてみることで、より快適な空間になり、嬉しさの感情を受け取る回数が増えました。

それは、たぶん家族以外のコミュニティでも同じ。
所属しているだけで所属感や参加感、親近感は得られないのではないか。

逆に、自身がコミュニティに対して自発的にアクションを起こしていない場合、疎外感のような孤独を感じることは、不自然でないということ。
だから、自分に自信を無くす必要はないし、もちろん周りも悪くない。だれも、悪くない。

もちろん、やさしい人が安心感を感じられるよう場づくりをしてくれ、周りから働きかけてくれる場合はあります。

しかし、もし場に期待することなく、いつも安心感を感じられる空間を自ら作れたら、とても素敵で豊かだと思いました。

帰る場所

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家の大きさは変わらないのに、
家の中で起きる出来事は暮らしを変えちゃう。
とても明るくなったり、暗くなったり。
家が暗いと、こころも殺伐としてきます。

職場、学校、おうち、、、
人それぞれある、自分自身の主要都市みたいな部分。

主要都市が暗くなってきたとき
・今のまま維持する
・場所を変えずに自分を変える
・場所自体を再選択する

もっともっとある選択肢のなかで、
みなさんは、どうゆう気持ちになり、どうしますか?
そもそも、暮らしや居場所は重視しない価値観の方の話も聞いてみたいです。


どうしても、羽を伸ばしている感覚を得たい

ヒッチハイク

書いているうちに、「大切な人を大切にする」って、在り方じゃなく生き方じゃないか?と不安になりました。
ああ、在り方を見つけたかったのに。

わたしは、「主要都市の環境に違和感を感じたら、なるべく早く違和感をとらえて、アクションを起こすこと」を大切にしたい人なんだろうなと捉えています。

周りに気を使えるほど大きな範囲ではなく、自分自身がのびのびしていると感じている瞬間が実感できるように過ごしたいという強い欲求。

そのために、できることは、いつだってやりたい。
そうじゃないことは、やりたくない。


なぜなら、
正しく理解されず、ぺしゃんこにされることを恐れているから。
かな?と今は捉えています。

小学生のころ、お母さんによく怒鳴られ、家の外に出されていました。
そういえば、「私のことを支配しないで!」と怒られるたびに訴えていたことを思い出しました。
深く心の奥底に何層にも蓋をして、鍵をかけて、土の中に葬ってたんじゃないかってくらい、奥深くに眠っていました。

今考えたら、お母さんはすこし心配症で、感情豊かで、大人になったとき1人でも立てる大人に育ってほしかっただけかもしれない。
わたしは、お母さんがとても大きく見えて、でも少し見くびっていて、勝ちたいと思っていたのかもしれない。
(客観的に見たら、なんてことない経験だと思う。とても。)

理屈が通ってないけれど、目上の方という理由だけで、よくわからない指令を出されるのは、とても生きづらいと感じてしまいます。
噛みつかず、素直に従える弟がとてもかっこよくみえた。


縁あって、思ったことを思ったように伝える嬉しさの味を知ってから、ありのままで居られる空間がとにかく家みたいで、本当の家は、寝に帰っているだけでした。

自分にとっての家を壊されないようにとにかく守る事しかできなかったけれど、「おいしい」を伝えることを通して、新しく開拓するヒントを手に入れたような

小さい頃の支配されてると感じたトラウマを、消化できたような、
そんな感覚を今抱いています。


最後まで読んでくださってありがとうございます。
とても、うれしいです。



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