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ため息俳句番外#12 つぶやきは届かない

 もう、かれこれ10年前にもなろうか。

 福島県へ、花見に出かけた。
 福島市の花見山公園、会津若松市の鶴ヶ城夜桜、三春町の桜、一泊二日のやや強行軍であった。酔狂にも鈍行電車の旅であったので、行き帰り車窓からもたっぷりと桜を眺めた。景色は見頃を迎えた、どんぴしゃのタイミングとなった。
 
 その三春でのことを書こう。
 三春と言えば、「滝桜」である。実は、この時の「滝桜」見物は二度目であった。一度目は、「福島復興支援」と銘うたれたバスツワーで、その時は、一輪の開花も見ることなく、それでも、バスガイドさんは、慌てず騒がず残念でしたねえと、さらっとことを収めた。
 このたびの再訪は四月初旬となって、「見頃」と宣言されたまさに当日であった。

 噂にたがわないしだれ桜の堂々とした姿に驚嘆したのだが、自分はすぐに飽きてしまった。もっと桜の下に留まりたい妻をせきたてるように三春町の市街へ戻って町中を散策することとした。いや驚きました、町中がサクラ、桜、さくら。そんなこんなで、我ら夫婦の脳みそは完全に桜色に染め上げられ、随分といい気分で、三春駅へ向かったのだった。
 その道々、自分が老妻から14、5メートル先を歩いていると、背後で、あたりの桜を見て老妻が感極まったという風に「きれい」と、小さく声をあげたのが聞こえた。
 その瞬間、自分は女子高校生と、すれ違った。その、すれ違いザマ、確かに小声の一言を聞いた。

「ケッ!キレイ!」

 その少女の吐き捨てる如き一言。妻の耳には届くはずない小さく低い声で。つまり、女子高校生にも妻の感嘆の声が聞こえていて、そのとっさの反応が、この一言となったのだ。その言葉の意は、「ケっ!桜がキレイだって、何浮かれているんだよ、婆さん!」ということだと、理解した。少女は、幅の狭い歩道だったから、妻ともすれ違って去って行ったはずだ。これは、悪口ではない、「つぶやき」である。「つぶやき」を責めるのは、愚である。
 誰かに向けた言葉でない、こちらが偶然聞いてしまったひと言だ。
 行き過ぎたのち、駅へと向かいながら、「その通り、ボク等は浮かれすぎでした」といって、握手のひとつでもしておけばよかったとか思った。
 駅に着いて、妻に話すと、二人して大笑いになった。妻は、その高校生と行き過ぎたことなど記憶になかった。(「ケ!」は筆者の付け足し、盛ってしまった。彼女は「キレイ」と妻の言葉を反復しただけだったと。筆が滑るというあやつだと、お見逃しを)
 
 そこで爺ィから云うと、どんな理由からであろうとも屈託するあまりに大人たちに対して怒りを抱く青少年が嫌いではない。高校生、イヤ、少年少女は必然的にそうなるしかないと思うのだ。
 「ケ!キレイ!」、率直な一撃である。
 だが、残念なことにその一撃は、不発、ただのつぶやきでしかなかった。彼女の怒りは、ついに誰にも伝わることがない。だから、若者たちは、大いに語るべきだと思うのだ。そうしないと、この世界は腐ってしまうのだ。詩も歌も、その表現の一つであると思う。誤解なきように云えば、それは政治に関することでない、そんなものよりもっと大きなものに向かうためだと思う。
 
 なぜか、思い出したので書き留めておく。