見出し画像

ため息俳句 本との別れ

 終活流行りである。
 終活の一つの項目に、断捨離とかいう不気味なミッションがあって、なんてっこちゃと思っていた。
 「断捨離」とは、ヨーガの行法とかに由来するらしい。けれども、ダンシャリと聞くとすぐに断末魔ダンマツマと連想する自分は、何か深層心理的に問題があるのかも知れない。
 
 妻から前々から書棚に収まる量の本以外は、処分するように言われていた。もう、いつ何が起こるかわからない年齢なのだから、後に残る者が困ることはなるべく減らすようにしなさいとというわけだ。無駄に多量な蔵書も大問題だぞと、云われてきた。自分も子供たちも、うんざりしているから亡くなり次第、まとめて古紙回収のおじさんに渡して、トイレットペーパーに変えてしまいますよと、憎まれ口をたたくのである。
 実は、近日中にいよいよ名実共に後期高齢者に分類される身となった。健康保険証も切り替わる。明らかに、カウントダウンを刻む音は高まってきている。そういわれると「終活」「断捨離」、ちょっと、それは人並みに気にかかることだ。
 昨年一時蔵書処分に手を付けて、月給取り時代の仕事上に必要とした蔵書を買取ってもらい、お金は買い取り業者を通じてどこかに寄付した。次もそうしようと思った。なんだか、さっぱりした気分になれたからだ。
 そこでだ、今回は小説と文庫の処分を目指すこととした。昨日から初めて、いまようやく段ボール6箱に詰め終わった。6箱というの買い取り業者が一度に無料で送ってくれるのが6箱までなのだ。

 さて、その処分の本の3分の1ほどが、なんとあの大手古書店で、100円ないし105円で入手したものだった。

 月給取り時代、電車通勤の帰路、某駅で途中下車して駅周辺をぶらぶらした。時間にしてなら1時間ほど。自宅と職場の中間あたりの街で、喫茶店なんぞで一人で一服するという、なんともボッチ的な時間の過ごし方である。父親でも、サラリーマンでもなく、だだのおじさんの顔をしていられる。ただ情けないことに、酒のみでないので、粋な蕎麦屋で手酌で一杯なんて、そういうことはできないのだ。

 そんなぶらぶらの時折、その大手古書店の100円の書棚の前にひと時くつろいだ。一冊100円というのは、神保町辺りのワゴンセールにもあったが、目の前にずらっと並ぶのがここの光景であった。
 この作家のこの評論家のこれが、100円かと始めは驚いた。昔から古本屋さんを覗くのが楽しみであったから、古書の値段のつけられ方は多少心得がある。しかし、ねえ、100円は乱暴ではと、思うのだった。ついで「100円なんて、なんと可哀そうな」と思うと、つい捨てておけず手が伸びた。
 そういう買い方を、自分の中では、サルベージと呼んでいた。そのサルベージ本が、多量にあったので自分ながら呆れた。
 
 とはいえ、100円で売ることに非難しようというのではない。たとえ買い取り価格が少額であっても、売れなければ在庫ばかりになる。それならば、ワンコインでも、売れて欲しいということだが、それが自分ような購買層の目に止まれば、しばらくの間は古紙としてリサイクルされるのを免れることになる。読み手のいない本は、ただの古紙の束でしかないのだ。

 さて、段ボールに詰めながら、その100円の定価がついたシールが気になってきた。我慢できず、自転車でひとっ走りして100均に行き、シール剥がし液を買ってきた。そうして、一冊づつ丁寧にシールをはがした。きれいにはがれる。100均で買ってきた液体で、100円シールを剥がす。100シールが貼り付いたままで、売りに出すのはなんだか憐れすぎる気がしたのであった。
 勿論、二束三文以下、値が付かないものも多くいるだろう。だからこそね、という気がする。
 こんな感傷は、電子書籍に馴染んだ人には、理解できないだろう。

 書物も一期一会だと誰かが言っていた。とにかく、書棚からレジへ本を持って行ったのは自分だ。今は忘れたが、その時は心惹かれる何かがあったのだ。あるいはその時に必要な何かがあったのだ。縁と云えば、縁。そういうものだが、永遠に積読しておくのも、本にとっては残酷な仕打ちと云えるかもしれない。

本を売るりて終日梅雨近し 空茶