見出し画像

ため息俳句  寿命

 気分をさっぱりしようとかと、散髪に行った。
 髪を切ったあと、シャンプーになる。
 あれは髪を洗う専用だから洗面台ではなく「洗髪台」とでもいうのだろうか、前屈みになって洗髪台に頭を差しだす。

 ふと、これは斬首されるときの姿勢のようだと思った。
 昨日、北野武監督の『首』をネット配信で観たのだ。
 あの作品では、とにかく「首」が数え切れないほどに切り落とされるのだ。冷酷で陰惨極まりないのが、戦では当然と云うわけだ。即物的とでも云おうか。
 とにかく、その瞬間に生命が切断される、寿命が強制終了させられてしまうのだ。
 我らが、祖先の所行である。

髪切るに首さわさわと涼しかる  空茶


 さっぱりしたら、一寸元気になって、妻と連れだって映画を観に出た。
 今話題になっている『九十歳。何がめでたい』である。
 この映画の題名にもなっている『九十歳。何がめでたい』は2016年8月に刊行された佐藤愛子さんのエッセイ集である。これが、翌年中には発行部数が100万部を越えるベストセラーになった。その佐藤さんは2023年に百歳になられたそうだ。

 映画の内容はここでは触れないが、やはり見所は佐藤愛子さん役の草笛光子さんの演技である。草笛さんは1933年生まれでいらしゃるということを知れば、『九十歳。何がめでたい』の主演女優としてこの方の外にないであろう。というより草笛さんのために作られた作品かもしれない。女性の年齢をこうもあけすけに言うのは、自分ながら失礼千万とは思うのだが、九〇歳の草笛さんが九〇歳の佐藤愛子を演ずるということへの興味である。
 結果、見事に演じておられた。生き生きとされていた。とりわけ発声が力強く明瞭なことに感心した。この頃、我ら夫婦の会話は、もごもご感が酷くなってきたからだ。
 『九十歳。何がめでたい』、まったくそうでありましょうが、多分この作品を見終えた人は、九〇歳もそう悪くないかも知れないと、元気をいただいく方も少なくないだろう。要は老いて行く己にどう立ち向かうかということである。

 やや強引ながら話を転ずると、戦国時代の平均寿命は、武士が四十二歳、庶民は三〇歳くらいだとネットの一部では云われている。正確かどうかは確認していないが、人生百年時代と云われる現在からみれば、いづれにしろはかない寿命であったろう。特に、庶民が三十歳とはねえ。
 平安時代では、男性が「三十三歳」、女性が「二十七歳」くらいとか云う説もあるようだ。これも貴族階級のであるから、庶民はどれほどであったろう。
 そんなことを思いあわせると、人生100年時代などとは、人類史上の未曾有の段階へ突入しようとしているといえるだろう、そして、まさしくその当事者になるかも知れない可能性が自分にもないとはいえない、・・・・、どうなんだろう・・・・。「人生百歳、何がめでたい」と、笑って言える人に自分はなれるであろうか。

 エンドロールが終わり、劇場が明るくなって、客席を見渡せば、嗚呼、客は老人ばかりであった。足元があやしいご同輩が出口に向かってのろのろと移動して行く。杖をつく人も少なくない。
 その列の最後尾に並んで、皆さんの後ろ姿を見ていたら、ここで改めて、「九十歳。何がめでたい」という一言にゴツンと頭を打たれた。そして、なんだか可笑しくなった。どうやら、妻も同じような気持ちになったらしく、笑っていた。
 

 
紫陽花や人、命の色変わり