見出し画像

ため息俳句番外#16 四万十川の見える宿まで

五月が終わる。
この五月は、妻の七〇歳になった、それがどうしたと問われれば、どうってことない、生きていれば誰だって、七〇になる。とはいえ、世間的には古希を祝うということがある。そのイベントで四国に行ったことは、このブログでも触れた。
 旅の二日目、宇和島で遅い昼飯たべてから、四万十川河岸のその日の宿まで移動した。宇和島で予定していたことが時間的に無理となって、かえってその移動は余裕ができて、道草しながらだらだらゆこうということになった。そうはいっても、土地勘のない我らは道の駅なぞによって、地元の土産などを見て回るくらいで、他にすることもないのだ。

その移動で、愛媛と高知の県境の町だと思うが、松野町というところの道の駅に立ち寄った。確か水族館とガラス工房が併設されていたような気がする。地図を見ると道の駅の裏には四万十川へと合流してゆく広見川が流れているはずだった。その日の宿は、その合流地点の付近にあった。
川の様子を覗いてゆこうかと展望できる場所を探しているたら、そこに芝不器男という俳人の名があった。
ああの夭折の人、それだけを思い出した。自分の偏見でしかないが、なんとなく短歌俳句という伝統詩歌の人は一般に長命であるとの思い込みがあるのだ。そうした中で、芝不器男は、26歳で病死していると記憶していた。それに、自分は若いころ「夭折」というのに憧れに似た気持ちを持っていた、ちょっと危ない奴だったのだ。松野町は芝の生地であったのだ。知らなかった。
宿についてガイドブックをみると、あの川向うに芝の記念館があったのだった。記念館と云えば、松山では子規の記念館へ勿論のこと行った。立派な施設だった。閑散としていた。駐車場も空いていた。展示もオーソドックス、ちょっと退屈。その子規を筆頭に俳句史に残る人たちが愛媛県から誕生している。鯛めしを食った宇和島近くには富澤赤黄夫がいたはずだということもうろ覚えだが。芝もその一人であった。俳句が観光資源になっているのもむべなるかな。

芝不器男の句は、かもしだす静寂の深さに惹かれてきた。

人入つて門のこりたる暮春かな   芝不器男
ふるさとや石垣歯朶に春の月
麦車馬におくれて動き出づ
駅路や麦の黒穂の踏まれたる
秋の夜のつゞるほころび且つほぐれ
わかものの妻問ひ更けぬ露の村
寒鴉己が影の上におりたちぬ
一片のパセリ掃かるゝ暖炉かな

昨夜、熱が上がって明け方には下がっていた。
今日は、体が大分軽く感じられるようになった。
振り返ると、梅雨のあたりは体調が狂ったり、ぎっくり腰なったり、どうも憂鬱なことが起こりやすかった。気を付けよう。
画像は、宿の部屋から四万十川を望んだもの、この少し上流に合流地点があった。