水と油の物語
朝。朝は誰でも不機嫌なものだが、むっつり黙って広げた新聞にこの様な陰惨な事件の記事を見ると、更に朝からやり切れない気持ちになる。
「31歳長男、父親に天ぷら油かけ切りつける…殺人未遂逮捕(■■新聞 某月某日)」
私はその事件の顛末を詳細に頭に描き始める。
長男は先年、調理師になりたいという希望を父親に打ち明けた。永年の夢であるという。当然父親は猛反対した。これまでそのような相談をされた試しは無く、親の勧めるままに近所の市役所に就職し、勤務態度も評判も良く、これで息子も将来安泰と父親は安心していた。それを今更調理師になりたいなどと言う。会社を辞め、調理師の勉強をしたいと言う。父親は長男の夢を断じて認めようとはしなかった。
口論の日々が続いた。
長男は父親に相談を持ちかけたその日に、市役所に退職届を提出していた。昼間はアルバイトをしながら、夜は部屋で一心に資格の勉強をした。彼は早く一人前の調理師になりたかった。父親をまた安心させてやるために、一心に勉強をした。
しかし生来この長男は料理に向いていないのであろう、試験にはことごとく落第した。落胆して帰ってくると、それでも次の試験のためにと自室に向かい勉強をはじめた。父親はそれをただ苦々しく見ていた。自分の期待を裏切り自分勝手な道を歩んでいる馬鹿だと長男を侮蔑していた。
そして一年が経ち、長男はまた試験に落第した。彼は調理師を志した時、一年間で結果が出ないようであれば諦めようと考えいていた。しかし結果は、調理師として芽が出ないどころではない。調理師になれもしなかった。
長男は肩を落として家に帰るなり、父親に「俺、調理師は諦めたよ。また、ちゃんと就職するから」と言った。父親はそれを鼻で笑った。「それみたことか」という顔をしていた。
長男は日頃はそのような父親の態度に接したときは、怒り任せに憎まれ口の一つも叩いていたが、その日は俯いてそうそうと自室に引き下がった。そのままその日は顔を見せなかった。
次の日の朝、長男は早くに起きて天ぷらを揚げていた。父親が好きだったかき揚げうどんを作り、これを食べてもらうことで父親に迷惑をかけてしまったことを詫び、自らが夢を追わずにはいられなかった心を理解てもらいたかった。
父親は、この和解のかき揚げうどんを無表情で啜りながら長男に言った。
「全く、これでまた就職をしたところで前のように安定した職には到底つけまい。くだらない夢を追ったおかげでお前の人生もみじめなものになってしまったな。馬鹿なやつだ」
息子はそれから自分が何をしたか覚えていない。気が付いたら父親は食卓に倒れ、皮膚にかかった油がシュウシュウと音を立てていた。首からは赤い血が流れ続けている。長男は近づいてくるサイレンの音を聞きながら同じ言葉を繰り返していた。
「俺は親父を揚げるために調理人を目指したわけじゃないのに」
付記
これはPCのバックアップデータのかなり深いフォルダから出てきた短い小説で、文中に出てくる新聞記事の見出しは2007年9月16日に実際にあった事件のものです。
検索してみると、記事自体は古過ぎて削除されているのですが、記事を引用して書かれているブログを発見しました。その引用された記事を更に引用してみます。
もちろんこの小説は完全な創作で実際の事件とは全く関係の無いものです。ただこんな事件があって、その記事を読んだ私がこのような空想をしたという記録だと思って読んでいただければ幸いです。
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