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推し、燃ゆ 感想 ネタバレあり

昔から自分はミーハーだと思っていたが、バイト前にふらりと寄った本屋で芥川賞を取った「推し、燃ゆ」を衝動的に買ってしまうほどだとは思っていなかった。本は本棚の幅を取らない文庫に限ると思っていたし、芥川賞を取るような純文学はあまり好きではなかったが、今思えばタイトルと著者が同い年だということにも惹かれてだろうか、引き寄せられるようにレジに並んでいた。

今日のバイトは仕事が早く終わり、上司も早く帰ったのでせっかくだからと読み始めたら止まらなかった。読み終えて目を上げると、ちょうどもう帰る時間だった。

宮部みゆきや東野圭吾ばかり読んできた人間には、これまで読んできたものと種類が違う気がして変な気持ちがする。ストーリーを読むのが小説というつもりだったから、その点では満足というわけではないが不思議な満足感がある。言語化せずにはいられないので久し振りにnoteを書いている。

帰りの電車で悶々と考えた。簡単に言ってしまえば文章の魅力ということだが、それで済ましてしまうには惜しい気がした。一つの結論に辿り着いた。他人から読めばとんちんかんかもしれないが、自分にとっては未知のものだったこの小説の魅力の唯一の解釈であり真実だから、これを人に読んでほしくてたまらない。

一言で言うと、主人公のあかりと読者の間にある距離感のコントロールが抜群に上手いのだと感じた。面白い小説は主人公などの登場人物に感情移入できるものだというが、この小説は明らかにそうではない。そうではないが、全く感情移入が起きないかというとそうでもない。

たとえば、定食屋でのバイト中にあかりがてんやわんやになって混乱してしまう場面(ひどい表現!だが他に思いつかない)。ここは凄まじいテンポ感で息をつく暇がなかった。過呼吸になってしまいそうなほど読み続けて、目が回るような状況になってしまった。あかりの視界、言ってしまえば絶望感を共有している気がした。この場面、この限りにおいて自分はあかりと一体化しているように感じた。感情移入ということになる。姉との場面、学校での場面でも、あかりと視界を共有しているような息苦しくなる感覚が何度かあった。

一方で「推し」に関わる場面、後半のインスタライブやクライマックスのマンションに向かう場面では、決してあかりと読者の視界は共有されない。あかりを外から見ているような気分になる。これは後から見返して気づいたことだが、「あたしは」「あたしも」という、一人称を主語にした文が多い気がする。わからないけど。一人称の文を入れてあかりに自分の状況を説明させることで、都度読者はあかりと一体でなく、自分があかりを観察していることに気づく。これは特にクライマックスで顕著で、あかりがマンションにたどり着くまで目的地がどこなのかはわからない。マンションまでの道のりの中で、決してあかりに感情移入などできない。あかりが何をしているか知らないからだ。推しの住むマンションにたどり着いてはじめて、読者はあかりの視界に何があるのかを知る。

この読者と主人公の距離感のコントロールは、主人公の不安定さを引き立たせているように感じる。推しと関わっていない時には自分と一体となっているあかりが、推しに関わると自分のもとから離れていく。理解できない存在になる。「解釈」できなくなってしまう。不安になる。

読者は随所であかりに寄り添わされ、視点を共有させられ、しかしながらあかりにとって最も重要な「推し」に関わる場面では引き離され、理解すらできない。この繰り返しを経て、「推し」に関わるあかりを不安に、心配に思ってしまう。しかもラストでは「推し」が人間となって「推し」との時間を奪われ、あかりに残されるのはこれまで読者が共有してきた絶望感だけであることが強調される。没頭し、重い読後感に浸るには十分ではないだろうか。

そもそもこの解釈が多くの人に理解されるか怪しいし、多分されないし、多くの人が共有できる魅力に自分はまだ気づけていないかもしれない。それでも自分にとってはだらだらと書いたこれこそが「推し、燃ゆ」の魅力であるし、読んだ直後からもやもやして文字に起こさずにはいられなかったことだ。今日はずっとこの小説のことを考えていたので疲れた。寝る前に大事なことを書き忘れていたことに気づいた。というより、ここまで書いてきて改めて気付いたことだ。すっっっごく面白かった。



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