現代語訳「玉水物語」(その十)

 伯父は目を剥《む》いて反論した。
「人界《じんかい》に生まれるのは仏の教えによるものならば、この世に現れた仏に命を奪われることもあろう。儂《わし》が起こした罪ではなく、彼らがみずから招いた罪の結果であるなら、我が身には微塵《みじん》も咎《とが》はない。一日中、座禅をして思いを巡らせながら心の内を見ると、我が心には仏になるべき本性《ほんしょう》がないため、理《ことわり》を理解するしか手はない。理を推し測り、このようなものだろうと考え、いつわりの仏性《ぶっしょう》を理と見なし、雑念を取り除いて功徳《くどく》とする。つまり、この仇《かたき》を憎む気持ちをなかったことにして仏に祈っても無意味なのだ。延喜《えんぎ》の醍醐《だいご》帝は後世まで慕われた人物であったが、過去の宿業《しゅくごう》によって無間地獄の底に沈んだ。また、帝の皇子だった空也《くうや》上人《しょうにん》は、夢の中で託宣《たくせん》を受けて悟りを開いたが、それは無間地獄の底からくすぶる炭を金鋏《かなばさみ》で挟んで取り出すようなものだったと言っている。このような身分の高い者たちでさえ、前世の宿業《しゅくごう》から逃れることはできないのだ。その一方で、播磨《はりま》の書写《しょしゃ》に住んでいた女は、雀《すずめ》の子を探し求めている際に法華経《ほけきょう》の声を聞いたことで、後に聖武天皇の后《きさき》になったという。確かに、今ここで悪念《あくねん》を払って慈悲の心を起こし、十悪《じゅうあく》五逆《ごぎゃく》の罪人まで導いてくれる阿弥陀《あみだ》の名を頼りにすれば、来世は安泰かもしれない。しかしながら、お前や儂《わし》は獣の身体に生まれた畜生《ちくしょう》である。同じ業《ごう》を抱えた身として、どのようにして仏道に入ると言うのだ」
「理《ことわり》をよく理解した上で、仏の力の代わりに謀《はかりごと》を巡らそうとするのはいっときの心の迷いです。かつて、法然《ほうねん》上人《しょうにん》が話したことをよく覚えています。仏は善悪を区別することはなく、また、道理に合っているかどうかで罪を断じてはいけないと。浄飯王《じょうぼんのう》の悉達多《しったるた》太子も、王宮を出たからこそ釈迦《しゃか》になることができました。今、ここで善悪を判断すると、子の仇《かたき》を取るのは悪で、その者を助けるのは善だと考えます。つまり、善悪を決めるのは仇《かたき》を殺したいと思う気持ちではなく、その思いを払うことができないのが悪なのです。憎しみを捨てることは悟りであり、生きたまま仏になるのは望ましい姿だと言えます。悪業《あくぎょう》を尽くして、阿弥陀仏《あみだぶつ》の導きを無下《むげ》にしてはいけません。このことを理解しなければ、仏の効験《こうけん》は現れないでしょう」
 玉水の話に、伯父は背中を丸めながら深くうなずいた。
「このようなありがたい話が聞けたのは、前世でのよき宿業《しゅくごう》の報《むく》いであろう。確かにあの者を殺しても恋しき我が子が帰ってくるわけではない。今後はあの子の後生《ごしょう》を一筋に弔ってやってくれないか。儂《わし》は入道となり、山奥に閉じ籠《こ》もって念仏を唱えよう」
 そう言って屋敷から立ち退いた。
 この狐たちのやり取りを、養母は玉水と誰かが話していると思って聞いていたが、やがて心が軽くなって普通に話せるようになった。
 玉水は養母が物の怪《け》に取り憑《つ》かれた経緯を説明し、畜生《ちくしょう》とはいえども仏心《ほとけごころ》を備えた狐だったことを伝えると、養母は「そのような事情があったのですか」と得心し、父親が射殺した狐の後生《ごしょう》を祈って念入りに供養した。
 その後、玉水は安心して里を離れ、姫君の待つ屋敷へと戻った。
(続く)

【 原文 】 http://www.j-texts.com/chusei/tama.html


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