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現代語訳『さいき』(その5)

 女は突然のことに当惑したが、幼い頃から「歌を返さない者は、来世で舌のないものに生まれ変わる」と教えられてきたため、振り向いて返歌を詠んだ。

  我もただ同じ心ぞ旅衣《たびころも》来てこそ宿のつらさをも知れ
 (わたしもあなたと同じ思いで、旅衣《たびごろも》を着てここにやって来て初めて、宿で過ごす夜の苦しさを実感しております)

 詠《うた》い終わると、女は静かにその場を立ち去った。

(続く)

 佐伯の積極的なアプローチに対して、女は戸惑いながらも歌を返しますが、相手への好意というよりも義務感によるものでした。きっかけとなったのは、浄瑠璃などにしばしば登場する「歌を返さないと舌のない蛇身《じゃしん》に生まれ変わる」ということわざになります。

人の方より歌をかけられて返歌をせぬものは、これより忉利天のこなたなる山の麓に無量劫を経て舌なき蛇身と生まるるもの

(『十二段草子』)

 女の歌をストレートに読むと「宿での夜は寂しいというあなたの意見に同感する」となります。この「同感」(原文は「同じ心」)がくせもので、好意とも社交辞令とも取れますが、少なくとも拒絶や嫌悪といった負の感情は感じられません。出会ったばかりの異性への返答としては気が利いていると言えます。


 以下、二人の歌で使用されている言葉を比較し、気づいた点を記しておきます。

 【 佐伯 】 別る、憂し、暁、鳥、鳴く、宿のつらさ、濡るる袖
 【 女 】 同じ心旅衣、宿のつらさ

 先の佐伯の歌は情熱的ではあるものの、恋の歌でよく目にするありきたりな言葉が羅列してあり、よく言えば「純朴」、悪く言えば「平凡」と言わざるを得ません。これは佐伯が地方出身者であることを暗に表現しています。

 一方、女は恥をかかせないように相手の言葉(「宿のつらさ」)を引用しつつ、恐らく佐伯には思いつかない「旅衣」という表現を差し込み、二重の意味で解釈できる「同じ心」という言葉で即答しており、二人の力量に差があるのは明らかです。――次回に確定しますが、女の家がそれなりに裕福であることが歌で分かる仕掛けになっています。

 さらにうがった読み方をすると、佐伯の歌が「二首」だったのは、その場で考えたものではなく、時間を掛けて用意してきた「いつの日かいい女に出会ったら贈りたい恋歌のストック」の上位から惜しみなく出した可能性があります。実際、二人の出会いに結びつくキーワード(場所や季節など)が何一つない薄っぺらい内容で、使われている言葉や技巧が平凡だったのもこれで説明がつきます。

 それでは次回にまたお会いしましょう。


【 主な参考文献 】


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