現代語訳『小夜衣』(2020年センター試験「国語(古文)」出題範囲)

 供の者たちに「ここはどこだ」と宮が尋ねると、「雲林院《うりんいん》という場所です」と返答が返ってきた。
 宮はその言葉に耳を留《と》めた。
「それは宰相《さいしょう》の君が通っていた場所だ。最近はこの辺りにいると聞いていたが、住まいはどこであろうか」
 何としても姫君の居場所を知りたいと思った宮は牛車を止め、顔を出して辺りを見回した。どこも同じ卯《う》の花とはいいながらも、垣根のように続く様は玉川《たまかわ》の花を見ているような心地がし、古歌で詠まれたように「ほととぎすの初音《はつね》に気を揉《も》むこともないだろう」と慕わしく思いながら景色を眺めた。
 夕暮れ時だったので、葦垣《あしがき》の隙間からそっと屋敷の格子《こうし》の辺りを覗《のぞ》き見した。そこはどうやら仏前らしく、ささやかな閼伽棚《あかだな》があり、妻戸《つまど》や格子《こうし》などが押しやってある。供えられた樒《しきみ》が青々とした花を散らし、枝がからからと音を鳴らしている。
「この屋敷では真面目に仏道修行が行われ、後世が頼もしいようだ」
 仏道が気になる宮は、「儚《はかな》くもつまらない現世で、このようにして暮らしたいものだ」と羨《うらや》ましく思いながら見ていると、多くの女童《めのわらわ》たちの中に、かの宰相の君に仕えている童がいることに気がついた。「ここで間違いない」と確信した宮は、供の兵衛督《ひょうえのかみ》を呼び、屋敷の者に口上を伝えさせた。
「こちらに宰相の君はいらっしゃいませんか。我が主《あるじ》がぜひ面会したいと申しております」
 突然の宮の来訪に、宰相の君は心底驚いた。
「恐れ多くも、宮がここまでおいでになったようですが、どうしたものでしょうか」
 仏間の隣にある南面の部屋に急いで敷物などを用意し、宮を招き入れた。

 宰相の君と対面した宮は微笑《ほほ》みながら言った。
「最近、あなたがこの辺りに住んでいると人から聞き及び、山を分け入ってやって来たわたしの心中をどうかお察しください」
「このような鄙《ひな》びた場所にわざわざ足を運んでいただき、かたじけなくもきまり悪く感じております。実を申しますと、年老いた者が臨終を迎え、最期を看取《みと》るためにこの屋敷に籠《こ》もっておりました」
「そのような事情でしたか。誠に気の毒な話です。尼上のご様子もお聞きしようと思ってやって来たのですが」
 宰相の君は部屋の奥に退き、宮の言葉を尼上に伝えた。
 やがて、尼上が息も絶え絶えな声で返答をした。
「わたくしめのことがあなたさまのお耳に入り、老いの果てにこのようなありがたい恩恵を頂戴致しましたこと、これまで永らえた命が今は嬉しく、生きてきた甲斐があったと心から思っております。本来ならば、直接お目に掛かって御礼申し上げるべきところではありますが、見苦しい状態のため、我が非礼をどうかお許しください」
 宮は尼上の口上に深く感じ入った。

 女房たちが覗《のぞ》き見ると、華やかに差し昇った夕月夜にいる宮は他に類を見ない素晴らしい容姿で、山の端《は》から輝き出た月光のような姿は直視できないほど立派だった。艶や色が零《こぼ》れるばかりの衣装、直衣《のうし》がそっと重なった色合いも、どのようにして気品を加えたのだろうか、この世の者が染めたようには見えない美しい色で、模様も実に見事である。
 見劣りする男たちですら見慣れていない女房たちは、「世にはこのように立派な殿方もいるのだ」と感心し、「どうにかして姫君の結婚相手になって欲しい」と微笑《ほほ》みながら言葉を交わし合った。
 都と違って屋敷には人が少なく、ひっそりとした部屋で物思いにふける姫君の心細さを思うと、宮は不憫でならず、涙で袖を濡らしながら宰相の君に訴えた。
「必ずや姫君に、悪いようにはしないと申し上げてください」
 繰り返し念を押して屋敷を後にする宮を、人々は名残惜しく思いながら見送った。


※Amazon Kindleストアで各種古典訳・オリジナル小説を販売中です。
 (読み放題:Kindle Unlimited 対応)
  ・現代語訳『玉水物語』
  ・現代語訳『とりかへばや物語』
  ・作品一覧