生い立ちパズル 特別編:義母 2
続きです。
三人目の次男も 四人目の次女も、大きくなるまで 父に会うことがありませんでした。
が、
その後 重度の鬱で
呼吸だけをする屍のような時期を経て まだこころは 危険な状態ではあったのですが、
ふと 父に会おう、と思ったことがありました。
あれから 15年以上経っていたかなぁ、と思います。
意を決して
連絡をして、
会いに行きました。
父は 国指定の大腸がんだということで もういつ亡くなってもおかしくない状況でした。
入退院の繰り返しのようでした。
わたしが 会いに行ったときは 家で養生していたのですが 父は強い人で にこにこ笑顔でした。
痛い痛いと言いながらも すぐけろっとするんです。
その時期は 仕事も辞めて、
引退し、
『会長』として 会議に 顔出しだけのために 出席させられていました。
ちょこちょこ 痴呆も出ていたようですが。
歳はその頃 80歳くらいだったと思います。
義母が
『〇時から 会議でないかんよ』
というと
「だれがや」
『あんた』
「ほう」
『用意するよ』
「なんでや」
『会議』
「だれがや」
『あんた』
もう吉本のようなやり取りだったのでおかしかったです。
次男と次女も連れていきました。
初めて会う祖父です。
父は 嬉しそうに 孫の顔を見ていました。
満面の笑みです。
なかなか いい笑顔なんです。
「長いこと 連絡してこんかったの。何しとったんや」
というので え?と思いましたが
父は細かいことを忘れています。
すかさず、義母が
「あのときはいろいろあった」
と 父に言いました。
ひさしぶりに会うと 父より義母の方が 立場は強くなっていて 逆転しているようでした。
それでも 父の言うことは絶対ですが。
相変わらず 義母は
早口で ずーっと なんだかんだと 耳が聞きたくなくなるようなことばかり言います。
次男と次女に
『あんたたちのお母さんは 全然 たいしたことのないおかあさん』
と話していて 苦笑しました。
そうかもしれないけど
子供たちに聞かせたくなかったなぁ。
いまだに そういう言葉で話してるんだなぁ。
ていうか。
子供か。
まだ そんなこと言うんだ。
と 心の中で 笑いながら 突っ込んでました。
わたしは 実際、たいしたことないかもしれないけど
そんなこと言えるほど
義母は わたしを知らないはずです。
それを聞かされる子供たちだって
どういう表情をしていいかわからなかっただろうと思います。
次男は 高校卒業して 間がなかったと思いますが、いろいろと将来のことをどう考えているか聞かれ、質問攻めにあい、辛そうな顔をしていたので
『子供たちは関係ないから。父に会わせにきただけやから もうやめてくれない?』
と さすがに言いました。
父も
『いい加減にしろ』
と言っていました。
父はわたしに
『おまえは わしの血が流れとんやけんの、なんでもできるんやぞ』
と 言いました。
生まれて初めて 贈られた言葉だったのでとても嬉しかったです。
あ、そうです。
久しぶりに会いに行くと 連絡したとき
義母が言ったんです。
『なにしにくるん?』
不思議な言葉です。
実の父に会うのに 『何しに来るのか』と聞かれるなんて。
行けなかった時期に一度、手紙を義母に書いたことがあります。
子供の頃から、ずっと仲良くしたいと思っていたことなどの気持ちを綴ったのです。
一生懸命 心を込めて書きました。
その手紙について、会った時
『なに甘えてるの?』
と言われました。
あまりに 心がなさすぎるので
逆に ちょっと笑えました。
手紙は捨てられてるんだなぁ、と感じました。
こうして どうしても
伝わらない気持ちってある、ということも 知りました。
なんで今更 やってきた?の言葉の裏には 財産目当て?という気持ちがあったのかもしれません。
15年ぶりに会いに行って
父の命がもう あまり長くないことを知りました。
一生もう会うことはないだろうと 思っていたのが ふと 会いに行こう、という気持ちになったのも 何かを感じたからなのかもしれないです。
義母に
「何かわたしにもできることはないか」
と聞いたのですが
『なにもない』
ということでした。
しかし、心配でしたし、
『何かあったときは 連絡してね』
と 義母にも伝えて 帰ったのです。
数回 お見舞いにも行きましたが
父は いつ行っても 満面の笑みで 元気でした。
元気と言っても まあ とにかく よく眠っていました。
目を開けると にこーっと笑うのです。
相変わらず 男気があるし、
いい笑顔で笑うし、
何度も何度も もう危ないと言われながら
乗り越えてきたようでした。
そのあと わたしは 卵巣がん、乳がんと立て続けに発覚し、遺伝子異常も見つかり、
いま現在も経過観察中ですが、
そうして また 行けなくなりました。
向こうから 連絡をくれることは今までなかったので わかってはいますが、
父の最期には会いたいから、と 義母に 必ず 連絡もらえるようにお願いをしておいたし、連絡はあると思っていたのですが…
それすら連絡をくれることはありませんでした。
そんな大切なことすら…。
父の死を知ったのは わたしが 乳がんの手術をして 他の科の通院帰りのときです。
わたし自身のことが 少し落ち着いたので
父のことが ずっと気になっていたし、やっとの思いで 連絡をしました。
いろいろと 決断しようという気持ちもありました。
おそらく もう生きてはいない、というのも なんとなくわかります。
怪訝そうに義母がでました。
「いろいろと体調崩して あれから行けなかったんやけど 父は?」
と聞くと
『もう とうに亡くなったよ』
「… は?」
「連絡してほしいって話したよね?」
『連絡先知らんし』
いやいや もう何度も何度も連絡先は会う度 渡していました。
毎回 父に連絡先を聞かれたので
義母に言ってるよ、と 話すのに
義母は 知らないと言うのです。
父に教えても おなじでした。
父は直ぐに義母に 渡していましたし。
その都度 義母は 捨ててたんでしょうか。
すごいですよね。なんだか。
「連絡先 渡したよ?」
『知らん』
父の命の最期すら
こんなふうになるのか…。
想像できないわけではありませんでした。
でも、さすがに…。
さすがに 最期のときは 人として
知らせるはず、と 信じていました。
実の父の最期にも 会わせてもらえない。
きっと義母は 財産のことも 頭にあったのかな。そんなのいらないのに。
全部あげるよ、そんなの。
ほら、わたしのことなんて 全然 知らないじゃない。
ただ生きてるだけで 憎まれることもあるわけです。
義母に よく言われた、
『出来損ない』という言葉は
わたしのなかに ずっと居座り続けました。
それが原因かどうかはわかりませんが、うまくできても 褒められても
いまひとつ自分のことと思えず、褒められている自分は どこか他人事と感じてしまいます。
なので、いつの間にか
承認欲求というものも なくなりました。
それが良いのか悪いのか、
自分にはなんの才能もないのだろう、と思って生きてました。
それは今もそうです。
でも、才能とかそういうのは もう関係ない。
好きなもの、やりたいこと、わたしが欲するもの。
透明なこころで それを感じて やるだけです。
何にもならなくてもいいんです。
繋がる、紡ぐことは こころに持って 生きたいです。
褒められたいからやるんじゃなくて 好きだから気持ちよくやりたい。
誰も見ていない。
誰にも勝てない。
できそこない、できそこない、できそこない…
それでもいいや。
自然たちは いつも迎えてくれる。
山の中で 犬といっしょに
過ごす日々は たのしくて 敵などいなくて 幸せだった。
人の中にいると
心身ともに、わたしは疲れ果てた。
それは今でもそうなんです。
なんででしょうね。
やはり 自分は 優しさに欠けているのだろうか、とか思うこともあったのですが、
優しいとか 優しくないとか
そういうものじゃないんだなぁ、と思います。
これはこれ、で 分けて 大切なことは 持っておこうと思います。
分けないと難しいです。
わたしは 人間がどうしても 苦手なんです。
自分を含めて。
これはこれ、なんです。
何か 人として 足りないからとか、
それなら こうすれば、とかそういうものでもないんです。
苦手でも 場合によって
歩み寄ることはできるし、
なら、それでいいのではないだろうか、と思います。
ひとりでいることで 自分らしくいられることができて
バランスを取れているのなら それで。
『生い立ちパズル』を書いてみてよかったです。
まだ 父編のラスト回が残っていますが、自分のことも 同時期にいろいろ見つめ直せることもできました。
親たちのことを理解できず、
子供の頃は特に苦しかったし、大人になっても 気づかないうちに引きずっていたこともあったのだと思います。
でも この家族でよかったのかもな、と 今は思います。
正直、愛は感じません。
だけど、思うんです。
小さい頃から あった『謎の使命感』。
今 自覚できている、自分が『なりたいもの』。
これを 強く優しく目指すには この家族なしでは 無理だったかもしれません。
必要なことを 考えさせてくれましたし、必要な苦悩を たくさんもらえました。
義母に 父の最期を教えてもらえなかったことは 残念でした。
わたしのこと いっしゅんも思い出せなかったことはないはずです。
だけど 義母は わたしに連絡をしなかった。
連絡先知らなかったと言うけど それなら わたしが 電話をした時 あんな態度では出られないはずです。
知っているはずです。
もともと 義母に、そんな気持ちが さらさら最初からなかったんです。
そして、
その日 わたしは すべてを放ちました。
風の強い寒い日に 外で電話したんです。
義母には
『お元気で』
それだけ 伝えて切りました。
その後に
家族にもう執着しなくていいんじゃないか、と思いました。
今世の家族は この家族だったわけですが
わたしは 無精卵で 身体を借りて この家族の命を借りて ここに生まれてきたんだと 感じました。
自由になろう。
それから とても清々しくて
誰のことも 悪くは思わなくなりました。
合う合わないはあるのですが これに関しても 思うことがあります。またこれは少しずつ 書いていきたいです。
命を、魂を、愛するようになりました。
そういう意味で
わたしが育ってきた環境は 自分になるには 最適な場所だったのではないでしょうか。
次は 父のことなのですが、申し訳ないのですが、有料記事にすると思います。
𝓽𝓸 𝓫𝓮 𝓬𝓸𝓷𝓽𝓲𝓷𝓾𝓮𝓭