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映画 銀河鉄道の父


ようやく映画館に観に行けました。

映画も びーんと 電流みたいなのが来た時に 人気があるとか関係なしに 自分が 気になると ふらっと 観に行きます。

『銀河鉄道の夜』は、できるなら、
 感じるままの理想の見方があったのです。

ふと思いついて、
以前から 行きたいなぁ、とは思っていたのですが プラネタリウム 久しぶりに行きたいと思っていて、その流れで 『銀河鉄道の父』を観れたらいいなぁ、という感じでした。

だけど、いろいろと予定が 詰め詰めで プラネタリウムと映画のセットで 見たかったのですが 無理そうなので 映画はもうすぐ上映終了しそうだし、先に 観ることにしました。


『銀河鉄道』の話には 個人的ないろんな思いがあります。
また、それは 書きたいことの中に 入っているので かなりスローペースですが 後々、書くとして…


まずは、映画を 観に行ってよかったです。
こころの中に 藍色の夜空で 星が美しい景色が広がっています。


いろんな思いを巡らせることができました。
宮沢賢治の祖父が 認知症になったところで ふと思ったのは、
ひとは みんな 思い出を持っているけど、
知らず知らずに その思い出は するん、と 手から離れた風船のように 飛び立ってしまってしまうんだな、と いうことでした。

自身にもわからないけど
大切なものがあって、

忘れたくないもの、失くしたくないものがあって、
細かいことは わからなくなるけど
手からするりと 離れたことは 覚えていて 記憶を探してしまうのだろうか、と 考えたのです。イメージですが。

そんな人を思うと また、風船を持たせてあげたいと思ったり。

 勝手に 都合よく 想像しました。


賢治の妹のとし子が 亡くなる場面や
賢治が亡くなる場面で すすり泣きの声が聞こえました。

… 気づきました。
ずっと思っていたけど なかなか気づけなかったことでした。

わたしは 絶望する場面や、
人が亡くなる場面で 涙が出ません。
胸は きゅっと狭くなる感覚はあるのですが、
それよりも 広く大きくあたたかい希望に触れた時に 強く感動して 涙が我慢できないのです。


心底、救われるような気持ちになると、
こころが溶けていく感じがします。

宮沢賢治さんの
『雨ニモマケズ』は、やはり
たくさんの、受け入れられない思いや、
どうしようもない苦しさを経て その最期に 触れて 生まれた言葉たちなんですね。


自分のそのまんまを 信じて 応援してくれる人がいるというのは 大きく幸せなことです。


この映画を観ることができて、
やはり わたしはわたしのなりたいものを 的を外すことなく、ここは誰に何を言われようと 突き進めようと 決心しました。

自分のことは 自分にしかわからないから。
ただ 周りから見た自分のことも
耳に入れながら、バランスを自分で取っていきたいです。

どうするかは 自分で決めていきたいです。

ひとつの この命が終えた時に
どんな景色になっているんだろうな、と
少し おかしいかも知れませんが、楽しみにしています。
自分が どのように なりたいものに近づいていくのか 楽しみなんです。


そんなふうに思える映画の日でした。

どこまでもどこまでも
そこで終わりだなんて考えず、
自分というものは 終わることなく
どこまでも続くんだ、続けるんだと思って 生き続けたいです。



そして、とりあえず いったん お別れする時には 
『ありがとがんした(ありがとございました)』
と言いたいです。

柔らかいくしゃっとした笑顔で
心を込めて 言いたいです。







プラネタリウムは 来月でも行こうかな。



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