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1871年(明治4年)北海道、野生ホップが見つかるまでの30日間

ビールの原材料の一つであるホップ。現在、日本ではその多くを海外からの輸入に頼っていますが、過去には日本産のホップが主力を占めていた時代もありました。そもそも、日本のビール黎明期である明治初頭には、ビール醸造のために必要なホップはその全量を国内生産、更には海外への輸出までを視野に入れて生産に取り組もうとしていました。その動きのきっかけとなったのが、1871年(明治4年)の北海道における野生ホップの発見です。

当時、明治政府と開拓使は様々な思惑から北海道の開発、移入に力を入れており、その一環としてアメリカからホーレス・ケプロン氏を顧問として招いて近代的な技術を取り入れようとしていました。そのホーレス・ケプロン氏に伴って来日した外国人技師の一人にトーマス・アンチセル氏がいました。彼のバックグラウンドは地質、化学、植物などで、そうした知識や経験を買われて北海道の植生や地質などの調査へ派遣されることとなりました。このトーマス・アンチセル氏が、北海道で野生ホップを発見した人物その人となります。

トーマス・アンチセル氏の視察旅行は函館を出発して道南をめぐり札幌に至るものでした。この旅程は開拓使の公文書に残されており、大まかにその足取りをたどることができます。

アンチセル調書 植物 (教師報文録2収録)

今回はこの日程の記録を元にして、アンチセル氏が函館を出発し、ホップを発見するまでのおよそ30日間の足取りを追ってみたいと思います。

野生ホップ発見の地、岩内

野生ホップを発見した場所については、上記のアンチセル調書には実は明確な記載がありません。翌1872年に書かれた「アンチセル氏建言略」という資料では以下のように書かれているので、道南を巡った視察旅行のどこかでホップを発見したことは間違いないと考えられます。

其他北海道に培養すべきものはホップ草なり。蝦夷の南方には天然繁生する者往々之あり。

私自身は根拠となる資料を発見できていないのですが、サッポロビール関連の資料には、アンチセル氏は岩内で野生ホップを発見したと書かれているものが多くあるので、今回はそれを採用して岩内をホップ発見の地として追っていきたいと思います。

1871 - 2021。ちょうど、150年

野生ホップの発見は1871年で、今年2021年はそれからちょうど150年後にあたります。実は、以下の時系列での足取りは twitter や Facebook でまさにそのちょうど150年後の日付にポストしていたもののまとめです。今回 note にまとめるまでに時間が空いてしまったので、150年と少し後になってしまいましたが、それくらいの時間を超えた昔の話だと思って読んでいただけると、より楽しめるのかなと思います。

それでは、(およそ)150年前に時間を戻して、アンチセル氏の足取りを追ってみましょう。

1871年10月02日 函館到着

トーマス・アンチセルさんが東京から函館に到着しました。これから北海道の南部をめぐり地質や植生、鉱山などを調査しつつ札幌へと向かいます。そしてその途上でホップを発見することになります。
これからしばらく彼の足取りを追って行きたいと思うので、お付き合いください。

1871年10月03日

150年と1日前の1871年10月2日に函館に到着したアンチセルさんですが、すぐに札幌に向けて出発したわけではありません。記録は見つけられていないので何をしていたのかわかりませんが、出発までに何日か余裕があるので、アンチセル氏一行が北海道を巡るにいたる背景など簡単に説明していきます。出発までに間に合うかな。
まずアンチセル氏。彼はダブリンに生まれ、後にアメリカに渡りました。両国で化学、地理学、植物学などを修めます。
もう一人、重要なのがホレス・ケプロン氏。彼は米国政府の要職にありましたが開拓使長官黒田清隆氏から依頼を受けて北海道開拓の顧問に就任します。
アンチセル氏はケプロン氏と共に来日し、その学問的バックグラウンドを活かし北海道を開拓するにあたって産業の方向性を検討するため、北海道の地理、気候、植生、鉱物資源などを調査しました。それが今回の函館-札幌間の視察旅行です。

1871年10月4日

アンチセル氏一行はまだ函館を出発しません。
もちろんですが、アンチセルさんが一人で道内を巡ったわけではありません。同行したキーパーソンのうちの一人が福士成豊という人物です。
彼の名は開拓使の資料にも残されていて、またこの旅の様子を克明に記したメモ書きにも名前が残されていたことから、アンチセル氏の道内視察に同行したと考えられます。
福士さんは、ブラキストン線で名前の残るブラキストン氏から測量、気象観測などを学んでいて、この旅でもそのスキルが活かされることになります。
また、国内初の近代的気象観測を行い、国内最初の測候所を函館に建てたのもこの方です。

1871年10月05日

アンチセル氏一行はまだ出発しません。
一行の最終的な目的地は札幌です。当時の札幌はまだ「札幌村」でした。明治末期から徐々に開発は進み、1870年には札幌に開拓使本庁を設置することが決まり、入植者も少しずつ増えていたようです。
明治元年(1868年)の札幌の地図です。
http://gazo.library.city.sapporo.jp/.../shiryouDetail.php...
茅野が広がり、水路、豊平川、そして二軒の家が記されるばかりです。
二年後の明治三年には建物も増えている様子です。
http://gazo.library.city.sapporo.jp/.../shiryouDetail.php...
更に明治六年の地図。
http://gazo.library.city.sapporo.jp/.../shiryouDetail.php...
アンチセル氏一行の道内視察は明治四年なので、二枚目と三枚目の地図の間の時期、本庁設置も決まり街が発展し始めたころにあたります。
アンチセル氏はそんな札幌村を目指して、そろそろ函館を出発するんでしょうか。

1871年10月06日

アンチセル氏一行はまだ函館を出発しません。
なかなか動きませんねぇ。10/2 に到着して以降数日間の記録は見つけられていないのですが、のちに出てきますが雪に降られたりする時期の旅行なので、準備に時間も必要だったのでしょう。
福士成豊氏が残したと考えられる旅のメモには、その日の気温、気圧なども詳細に書き記されています。
ちなみに、アンチセル氏は「札幌は開拓には寒すぎる」というスタンスで、ケプロン氏は「同緯度の地域と比べても入植は可能」という見解だったと言われています。

1871年10月07日 函館出発

アンチセル氏一行はいよいよ出発の日を迎えました!おまたせしました。函館を出発して札幌へと向かいます。
この日はまず函館から東へ進み、下湯の川、銭亀沢、石嵜に立ち寄り、汐首で一泊しました。
嵜は崎の俗字で、現在の「石崎」です。
1871年10月07日に立ち寄った場所、宿泊した場所は大体こんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1NNmdomu5CdSLUBDBd8HjE2eybrePRRnU&usp=sharing
ピンポイントで特定できてはいないので、大体の位置関係と考えてください。

1871年10月08日

アンチセル氏一行は、汐首を出発し、戸井、尻岸内に立ち寄り、根多内で一泊しました。
尻岸内は恵山町の旧町名です。
根多内の正確な場所はわかりませんが、松浦武四郎が残した地図には山背泊と七つ岩の間に「子タナイ」の記述があります。
https://koukita.github.io/touzaiezo/map/
七つ岩はバス停の名前に残っているので、山背泊港との位置関係からだいたい恵山郵便局の周辺かなと思われます。
また函館市の資料によると古武井村、椴法華村の間に根田内村があった、恵山小学校(廃校)の旧名が根田内小学校だったとのことです。
https://trc-adeac.trc.co.jp/.../0120205100100050/ht006410/
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Pxl-M6ItgdI-tpCNO8H6mq1yQsNKy9-K&usp=sharing
場所は大まかな推測です。黄色のアイコンはさらに場所不詳です。

1871年10月09日

アンチセル氏一行は、根多内を出発し、椴保毛まで。そこから船で尾札部まで進み、臼尻で一泊しました。
椴保毛は椴法華と考えられます。
現在は根多内(恵山町)から椴法華まで海岸沿いの道はつながっていません。当時はここを行き来する道がついていたんでしょうかね。今の道で考えると、一旦古武井のあたりまで戻り、恵山の裾野を時計回りに内陸を進むことになりますが、果たして。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1JI5NEMK3Vdst2cTol2ysqLH02AI42j3W&hl=en&usp=sharing 
場所は大まかな推測です。黄色のアイコンはさらに場所不詳です。

1871年10月10日

アンチセル氏一行は、大時化のため海岸沿いの道が進めず、この日は臼尻にもう一泊しました。

1871年10月11日

前日は大時化のため足止めされたアンチセル氏一行は、この日は無事に臼尻を出発し、床路に立ち寄ったあと、鹿部で一泊しました。
床路は常呂川のあたりではないかと考えられます。
臼尻までは現在の函館市の範囲。床路と鹿部は現在の鹿部町にあたります。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Z2FsxrP2T3qPXskv748CuqX8h7us501j&usp=sharing
黄色マーカーは場所不詳です。

1871年10月12日

アンチセル氏一行は、鹿部を出発し、軍川に立ち寄ったあと、大野で一泊しました。
函館から鹿部までは亀田半島を海沿いに反時計回りにめぐってきましたが、ここから一旦内陸に向かいます。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=18QmA3VL_fiEFVztYwKhOv5Do5b4qq9Vi&usp=sharing

1871年10月13日

アンチセル氏一行は、大野から一の渡までを往復し、再び大野に一泊しました。
一の渡は現在の市渡(いちのわたり)だと考えられます。
大野については、のちほど記されるアンチセル調書でも取り上げられ、アンチセルさんは「島中最も耕作に宜しきの地」と高く評価しました。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1O-eX-2Vzrgf4cj4aWgA7ud4hcgkfDOMp&usp=sharing

1871年10月14日

アンチセル氏一行は、大野を出発し、富河を通過して、當別で一泊しました。
當別は現在の北斗市当別あたりと考えられます。
ここまで出発からおよそ一週間、函館から亀田半島を大きく一周してまた函館のあたりまで戻ってきました。この日からは西の方へと向かい始めました。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=129u6Sq9TJQ_rdL7qxz5pVmfli1y8j-Dt&usp=sharing

1871年10月15日

アンチセル氏一行は、當別を出発し、札苅に立ち寄り、木古内に一泊しました。
文献では 10/12 と書かれているんだけど、前後関係から 10/15 のことと考えられます。当別までは現在の北斗市、札苅と木古内は現在の木古内町にあたります。
本日の行程はこんな感じ。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1W7nQI9VUXL6y4nglut7uyvCfM0qrMpkJ&usp=sharing

1871年10月16日

アンチセル氏一行は、木古内を出発し、尻内まで往復して再び木古内に一泊しました。
尻内は現在の知内町と考えられます。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1x-Ed5Lhp60PGwdMOL8S-N5-mPA7DSIgz&usp=sharing

1871年10月17日

アンチセル氏一行は、暴風雪に見舞われたため、木古内にさらにもう一泊しました。
積もるほど降ったようですが、道南でこの時期に積雪というのはなかなか早いように思います。現在の平年値だと、函館や江差で積雪が見られるのは11月の半ば過ぎです。

1871年10月18日

昨日「この時期の積雪はなかなか早い」と書きましたが、奇しくも昨日の北海道は冷え込んだようで、函館地方気象台の管内でも初冠雪が記録されました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20211017/7000039296.html
150年前も同じような気象条件だったかもしれない中、今日やっとアンチセル氏一行は出発します。木古内には三泊しました。
150年前の1871年10月18日。アンチセル氏一行は、木古内を出発し、稲穂峠を越えて床部に一泊しました。冨川からしばらく海岸に沿って進んできましたが、この日は海岸から離れて山越えでした。
稲穂峠はかつて江差線にあった稲穂トンネルのあたりと考えられます。松浦武四郎が残した地図にも「エナオ峠」という記載があります。
https://koukita.github.io/touzaiezo/map/
床部は同じく地図にある「トコフ」ではないかと考えられます。隣に「ナカスタ」とあり、これが現在も残る「中須田」とすると、木古内に少し戻ったあたりに「苫符沢川(とまっぷさわがわ)」があります。このあたりに「苫符村(トマフ村)」もあったとのこと。
稲穂峠までは現在の木古内町、床部は現在の上ノ国町にあたると考えられます。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1wXKJ9B5cIgHZy7lCzY67jo4eNyKn8L3J&usp=sharing
黄色は場所不詳です。
ホップ発見まであと17日。

1871年10月19日

アンチセル氏一行は、床部を出発し、北村に立ち寄り江刺に一泊しました。
北村までは上ノ国町です。江刺は現在の江差町と考えられますが、江差町のうち具体的にどのあたりだったのかは不詳です。行程記録には道のりも記載されていて、地点のお互いの位置関係の目安になります。床部から北村まで、北村から江刺までのそれぞれの道のりと、翌日の宇和上までの道のりから考えてざっくりとこのあたりかなという場所に江刺のマーカーを置いています。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1tFAUz0AXx06ifA8Lraym7MCFYp4uNaRa&usp=sharing
ホップ発見まであと16日。

1871年10月20日

アンチセル氏一行は、江刺を出発し、宇和上に立ち寄り泊に一泊しました。
宇和上は江差町姥神町ではないかと考えられます。実はこの日の江差、姥神、泊の位置関係も行程記録にある道のりとの整合が難しくなっています。視察しながらの旅なので、海岸沿いを一直線に進んでいるわけではないため、こういった不整合も生じるのかなと思います。
この日からの何日間かはこのような道のりの不整合、前到着地と翌出発地の不整合、日付の抜けなどが見られて、現在の八雲町を過ぎるくらいまでの間は、立ち寄ったポイントの精度があまりよろしくない点、ご了承ください。
一応、江差、姥神、泊、ともに現在の江差町内に相当すると考えられます。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Js1OmtZZvogQybhhx196gUEu3qGjJGmD&usp=sharing
ホップ発見まであと15日。

1871年10月21日

アンチセル氏一行は、泊を出発し相沼まで行きました。
この日の到着地である相沼と、翌 10/22 の出発地点が一致していません。この相沼で一泊したのか、泊から相沼を往復して泊に再宿したのか、 もしくは相沼を越えて翌日の出発地点である泊川まで進んでいたのか。そもそも泊と泊川は同じ場所を指す可能性も考えられますが、そうなると前日10/20の到着地点も再考が必要になります。色々と可能性は考えられますが、確かな所はわかりません。
この日の行程はこんな感じです。地名の位置は特定できているのですが、それが本当にこの日の立ち寄り地だったのかが不詳、というところです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1UzlVvf5zp1DnXs0Q7nq3RUVXtZeT2VKA&usp=sharing
ホップ発見まであと14日。

1871年10月22日

アンチセル氏一行は、泊川を出発しユーラップに宿泊した、となっています。
現在の八雲町東部に相当する地域に遊楽部(ユーラップ)という地名がありました。しかし他にも遊楽部川、遊楽部鉱山など、遊楽部を冠する場所が広く分布していて、「ユーラップ」の記述から特定の地点を定めることは難しいです。
実際、この日から何日か出発地到着地に「ユーラップ」が繰り返し現れるのですが、これらが同一地点だと考えると位置関係の整合がうまく取れません。同じ名前で書かれつつも、実際の訪問地、宿泊地はそれぞれ異なる地点だったのではないかと考えられます。特にアンチセルさんの視察目的の一つが北海道の鉱物資源調査だったことを考えると、遊楽部鉱山には間違いなく立ち寄っているはずなので、「ユーラップ」のうちのいずれかは遊楽部鉱山だったのではないかと推測されます。
この日の行程は一応はこんな感じですが、上記のような理由からユーラップの場所については不詳です。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1UBJJ5CeCsUgZOS27F_UlVoEtawVEUsHH&usp=sharing
ホップ発見まであと13日。

1871年10月23日

アンチセル氏一行は、ユーラップに再宿したかもしれません。
昨日書いたとおり「ユーラップ」という表記が単一の場所を指すかどうかわかりませんが、この日は道のりの記載がないため、昨日到着地と同一の「ユーラップ」に滞在したのではないかと考えられます。アンチセルさんは別の報告書で遊楽部鉱山のことを詳細に記載しているので、この日は一日を遊楽部鉱山の調査にあてたのかもしれません。位置は現在の熊石から八雲に至る道から入った山中になります。遊楽部鉱山は鉛川鉱山とも呼ばれ、後に八雲鉱山として鉱山街と共に昭和に入るまで残りました。今でも当時の町の温泉だった場所に宿泊施設がありますが、町や鉱山の大部分は自然に戻っているようです。
この日の滞在位置は確定的にはわかりませんが、もしも遊楽部鉱山だとするとこのような位置関係になります。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Zcgfrg2BZ707Rx_B1uDNrNlUVzVm0rtw&usp=sharing
ホップ発見まであと12日。

1871年10月24日

アンチセル氏一行は、ユーラップと「ナカキヤ」を往復しました。
ただ、このナカキヤがどこなのかがわかりません。それらしい地名をユーラップ周辺に探してみたのですが見つかりませんでした。
アンチセル氏一行に同行した福士氏のメモ書きによると、この日は「中小屋」に立ち寄った、となっており、もしかすると「ナカコヤ」が「ナカキヤ」に変化したのかもしれません。それでもその具体的な位置については不詳です。
ホップ発見まであと11日。

1871年10月25日

アンチセル氏一行は、ユーラップを出発し山越内に立ち寄りました。
翌日の出発地が山越内ではないので、往復してユーラップに戻ったのかもしれません。この日の「ユーラップ」も正確な位置は不詳です。さすがにそろそろ八雲町の内浦湾側まで出ているようには思います。
山越内は現在の八雲町山越と考えられます。ここには江戸時代には関所が置かれていたそうですが、この時代にはもう廃止されていたとのことです。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1dh1wJmXYkk3Gxx9rAMEcGkIAVPB6NImY&usp=sharing
ホップ発見まであと10日。

1871年10月26日

アンチセル氏一行は、ユーラップを出発し黒岩で一泊しました。
黒岩は現在の八雲町黒岩と考えられます。ここしばらく立ち寄り地点が曖昧な日が続いていましたが、やっと具体的に特定できる場所が出てきました。
この日の行程はこんな感じです。ユーラップの場所は不詳です。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1xyNRCTOA0akQ50qnqmXPO53-636eb0su&usp=sharing
ホップ発見まであと9日。

1871年10月27日

アンチセル氏一行は、黒岩にもう一泊しました。
この日に関しては特筆することがなくて、福士氏のメモ書きにも特に何かしたというような記述はないようです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1BRq1RReFDJzkpHUT7bVf1QqXOrtboF2n&usp=sharing
ホップ発見まであと8日。

1871年10月28日

アンチセル氏一行は、黒岩を出発しクンヌイに立ち寄って年別に一泊しました。
クンヌイは国縫と考えられ、現在の長万部町国縫にあたります。10月21日の相沼から一週間にわたって現在の八雲町にあたるエリアを視察していたアンチセル氏一行ですが、とうとう八雲町から出て隣町の長万部町に入りました。
ユーラップもそうでしたが、ここからクンヌイのようにカタカナで表記された地名が増えてきます。先日書いたように江戸期には山越内に関所があり、そこよりも北が蝦夷地でした。そのため、この時点では漢字の表記がまだそれほど定着していなかった地域が残っていたのかもしれません。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=17nahjGUYR2I4C9dckVMV46OMOJXoDqGA&usp=sharing
ホップ発見まであと7日。

1871年10月29日

アンチセル氏一行は、年別にもう一泊しました。
年別は「トシベツ」で、現在の今金町美利河(ピリカ)のあたりと考えられます。現在の字名などに「トシベツ」は見あたりませんでしたが、このあたりに後志利別川(シリベシトシベツ)が流れています。さらに黒岩、国縫、長万部からの道のりからだいたいこのあたりだと考えられます。また、松浦武四郎の地図にも「ヒリカベツ」の隣に「トシベツ」があります。
https://koukita.github.io/touzaiezo/map/
美利河ダム造成の際にある程度地形が変わってしまっているはずですが、だいたいこのあたりと考えて大きく違わないのではないかと思います。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Ofc2pussVAvdPuRckz5cjZxX4rsnTKMS&usp=sharing
ホップ発見まであと6日。

1871年10月30日

アンチセル氏一行は、年別川を出発し、再びクンヌイに立ち寄り、長萬部に一泊しました。
年別川は現在の今金町美利河(ピリカ)近辺の後志利別川、クンヌイは長万部町国縫と考えられます。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=18Up8rKhsDG14QxkGqDcJb8yZARUBGRuX&usp=sharing
ホップ発見まであと5日。

1871年10月31日

アンチセル氏一行は、長萬部にもう一泊しました。
現在の長万部にあたります。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1YEF0JFZDWvvTeFbPYaiANcpO2EmzdF_D&usp=sharing
ホップ発見まであと4日。

1871年11月01日

アンチセル氏一行は、長萬部を出発し、二股に立ち寄りクロマトマナイに宿泊しました。
二股は現在の長万部町双葉、クロマトマナイは黒松内町と考えられます。双葉は以前は二股という名前だったそうです。二股らぢうむ温泉や二股駅にもその名前が残っています。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=19LubVVpckxw1A5Y2haJSgnJbzRrxO0lf&usp=sharing
ホップ発見まで、いよいよあと3日。

1871年11月02日

アンチセル氏一行は、クロマトマナイを出発し、オタシユツに立ち寄ってエソヤに一泊しました。
カタカナ表記の地名ばかりですね。クロマトマナイは現在の黒松内町、オタシユツは現在の寿都町歌棄(ウタスツ)、エソヤは現在の寿都町磯谷(イソヤ)と考えられます。内浦湾から日本海側に抜けました。
いよいよ岩内町が近づいてきました。現代の今の時期はもうホップの収穫は終わり、すでに今年産のホップを使ったビールが続々と登場しています。果たして、収穫適期を過ぎた野生のホップは見つけられるものなのか、見つかるとしたらどのような状態だったのか。気になるところです。
この日の行程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=12eWnUMIeM_gMPasIno6v4bShLIlZHIf5&usp=sharing
ホップ発見まで、いよいよあと2日。

1871年11月03日

アンチセル氏一行は、エソヤを出発し、ライデンに立ち寄り、岩内に一泊しました。
ライデンは出発地表記が「温泉」となっているとおり、現在の雷電温泉だと考えられます。お風呂に入ったんでしょうか。地質調査が目的なので、地質的な観点からの温泉訪問だったかもしれませんが。
そして、とうとう岩内に到着しました。現在の岩内町と考えられます。岩内町は明治時代から岩内場所として運上屋が設けられ、交易などで栄えていました。
この場所請負制度は北海道独特のものなので簡単に説明しておきます。道外でも社会科で習う話だったらすみません。江戸時代、一般的には米の収穫をベースにした禄高で藩主から家臣に報酬が与えられていました。しかし、蝦夷地では米がとれないため、禄高の代わりに交易の権利を与え、そこからの収益を与えることで報酬としていました。この交易を行う拠点を「場所」と呼び、岩内場所もその一つでした。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1fru0u2vWMGK7_u84x3a5A0yczN-F0zxW&usp=sharing
ホップ発見まで、いよいよあと1日。

1871年11月04日 ホップ発見!

とうとうこの日がやってきました。国内野生ホップ発見150周年です。めでたい!
この日、アンチセル氏一行は、岩内から石炭坑を往復しました。石炭坑は茅沼炭鉱のことを指し、アンチセル氏はその道中で野生のホップを発見したとされています。茅沼炭鉱は現在の泊村堀株村にあたります。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1bZoEfnXwup9ElanTYNiuGAJ_Qkix-U0v&usp=sharing
ちょうど150年前、ホップはこの2地点の間のどこかで見つかったはずです。これをきっかけに四号官園、菊水、苗穂、山鼻、平岸、月寒、そして上富良野につながる道産ホップの歴史が開きました。
アンチセルさんはホップを見つけましたが、目的地は札幌なのでまだ少し続きます。

1871年11月05日

アンチセル氏一行は、岩内を出発し、ササコヤに立ち寄りルビシビツに一泊しました。
ササコヤはおそらく笹小屋で、壁や屋根を笹で葺いた掘っ立て小屋の一般名称と考えられます。具体的な場所は特定できませんが、現在の共和町国富に笹小屋があったという記述が残る碑があるとのことなので、そのあたりかもしれません。
ルビシビツはルベシベ運行屋と考えられ、現在の仁木町大江にあたります。ぼくもこの場所を訪れてみましたが、今は碑があるだけで当時の面影はありませんでした。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1mYPO7rYFdV4ZAJ5ji2_OOddhR6dGLuC5&usp=sharing

1871年11月06日

アンチセル氏一行は、ルビシビツにもう一泊しました。
このあたりにはかつて鉱山があり、現在も仁木町銀山という字名や、銀山駅が残ります。しかしその開山はもう少し時期を下ります。また、アンチセル氏の報告書にもこのあたりの鉱山についての言及は今の所見つけられていません。この日のアンチセル氏一行は、地質に関わる調査で滞在したのか、天候によるものなのか、もしくはまた何か違った理由によるものなのでしょうか。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1LUuzFNV-Iv9GVIYSvMd8xSa4ldd4CVwi&usp=sharing

1871年11月07日

アンチセル氏一行は、ルビシビツを出発し、シカリベツに立ち寄ったあと、ユーツに一泊しました。
ルビシビツは先日書いたとおり現在の仁木町大江、シカリベツは現在の仁木町然別(シカリベツ)にあたると考えられます。ユーツについてはちょっとむずかしいのですが、余市の語源の一つに「ユーチ」説があり、おそらくユーツはこれが転じたものではないかと考えられます。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1fqQ65f44AyfK21hkrNzU3HB2m3Ya9MQ4&usp=sharing
目的地の札幌までだいぶ近づいてきましたね。

1871年11月08日

アンチセル氏一行は、ユーツ(余市)を出発し、オショロに立ち寄ったあと、小樽に一泊しました。
オショロは現在の小樽市忍路と考えられます。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1bDhZyif66iEn0zXxTOjaibp5WwXC1Raj&usp=sharing

1871年11月09日

アンチセル氏一行は、小樽を出発し、熊石に一泊しました。
熊石は現在の小樽市船浜町あたりではないかと考えられます。ここには熊碓川(クマウスガワ)が流れ、その上流には熊碓神社もあります。おそらく熊石は熊碓の転じたものではないでしょうか。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1jNJDLPaLxqg3PQro0L27iKDngSm7Jj8a&usp=sharing
いよいよ札幌が近づいてきました。

1871年11月10日

アンチセル氏一行は、熊石を出発し、銭函に一泊しました。
銭函は現在の小樽市銭函です。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1yk4Ty1p9JFgCB7o0nAu6sWobeDY9J9cd&usp=sharing
もう札幌はすぐとなりです。

1871年11月11日 札幌到着

アンチセル氏一行は、銭函を出発し、とうとう札幌に到着しました。
10月7日に出発してから実に一ヶ月あまりに渡る道内視察の旅が終わりました。道のりは延べ131里、500kmを超えます。
アンチセルさんはここからもしばらく道内に滞在したようですが「アンチセル調書 植物」に残る旅の記録は一旦ここまでとなります。道中雪に降られたり苦労しつつも、地質や植生などを調査し、そして(おそらく)野生ホップを発見するという様々な功績を残す旅でした。
この日の旅程はこんな感じです。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Fbbdj2CZ8GDyL1aEyHTsm4EggrVtxPHo&usp=sharing

旅程全体を振り返って

アンチセルさんの視察旅行全体の行程はこんな感じでした。
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1-YV92JpzE_qgo0aQuWZNCelZ-L_ExgkQ&usp=sharing
何箇所か、正確な場所が特定できていない箇所がありますが、大まかな足取りは追える地図になっていると思います。

アンチセルさんの足取りを150年遅れのリアルタイムで追いかける試みは一旦ここまでで完結します。ここから、彼が調査した内容はレポートにまとめられ、ケプロン氏の報告書にも影響を与え、この先の明治期の北海道における様々な動きへとつながっていきます。このあたりのお話はまた別の機会があればまとめてみます。みなさん、お付き合いありがとうございました。

主な参考文献

アンチセル調書 植物 (教師報文録2収録)
北海道近代化の幕開け(及川邦廣 著)


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