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大人のドラえもん日和


 藪から棒で申し訳ないが、最近『ドラえもん』に再熱している。実に十年ぶりだ。
 かつては生粋の『ドラえもん』オタクだった。毎週金曜のアニメも欠かさず観ていた。単行本も新品で買い集めていた。コツコツ溜める性格が幸いして、てんとう虫コミックス四十五巻を制覇して、暇さえあれば読みふけっていた。しかし、心身の成長とともに『ドラえもん』を読むことも観ることもなくなった。趣味嗜好が一段階成長したといってもいい。むしろ中学生ぐらいまで楽しんでいたんだから、周りと比べたら遅いほうだろう。ああ、言い訳のしようもない、ただのガキだ。俺はガキだったのだ。小六までプラレールで遊んでいた成長の遅いガキだった。
 しかし、鼻たれ坊主のガキも社会性を身に着けて、鼻水をティッシュでかむようになる。高校生のとき同級生に誘われて『ドラえもん』映画を観に行ったのだが、どうにも『子どもっぽい』といった感想しか抱けなくて、完全に心が離れてしまったことを実感した(その同級生は、このときすでに『ドラえもん』の"一周回った楽しみ方”を習得していたのだろうとは後で知った)。 

 長い間『ドラえもん』と触れる機会はなかったのだが、今年のあるタイミングで「自分の物語経験における原点はなにか?」と考えたときに、ひとつ『ドラえもん』という答えが出た。一話完結の短編、オチの起承転結、多彩なキャラクターの動かし方、ジャンルの幅広さ、ショタコン。ああ、すべて『ドラえもん』から来ているんだなあとしみじみ思い、今一度読み返してみたら、面白くて止まらなかった。

 もちろん、僕がまだ空の青さを知らない鼻たれ坊主だった時と比べて、読み方がだいぶ違っている。子どもの頃は、ただのび太やその面々に感情移入して、一緒にハラハラドキドキしたものだったが、いまはダークなSF設定や藤子F先生の趣味性といった俯瞰した読み方をするようになった。なにより、ギャグマンガとしての精度の高さが面白いなと思っている。ジャイアンにボコボコにされたのび太の顔とか、ドラえもんの驚愕顔とか、一コマで切ってくる強烈なセリフとか、思わず吹いてしまうシュールなギャグセンスの高さが子どものときには気づかなかった魅力であった。

 こうした"一周回った楽しみ方"を、もっとやりたいと思って計画を目下画策中である。『藤子・F・不二雄ミュージアム』には本年度中には行ってみたい。十年ほど前に家族と行って、ちょうど日テレの「スッキリ」のテレビカメラが回っていて、阿部リポーターが館内にいたのを覚えている(同級生にもバッチリ観られていた)。知識と教養を培った現在行ってみたら、どれだけ楽しめるのだろうというワクワクしながら、計画を練っている。


癒し系ネコ型ロボット


          ○


 ドラえもんは、ご存知二十二世紀から来たネコ型ロボットであるが、ただのび太の夢を叶えるだけの都合のいいロボットだったら、ここまでキャラとして愛されることはなかっただろう。ポンコツロボットだからこそ、のび太と同じ視点に立ち、悪口やイタズラにも時には加担して、怒ったり泣いたりする「親友」として描かれている。
 親友は、誰にとってもほしいものだ。悩みを聞いて一緒に馬鹿やってくれるような友だちは誰しもが望む。おそらく、ドラえもんの道具といったSF的要素を求めている人は、『ドラえもん』を深く味わうことができなかったのではないか。「ポケットがなくても、お前は彼と友だちになるか?」と自問自答すれば、おのずと答えが現れる。
 この作品の本質は、そこにあるのだと、僕は勝手に思っている。

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