しろいろの街の、その骨の体温の

    村田沙耶香著の小説を読んだ。私は彼女の書いた文章を読むのが好きだ。彼女の作品を初めて読んだのはどうやらもう3年も前になるらしい。高校から就職した地元の中小企業を辞めて呑気に好きなバンドのライブばかり行っている時期だった。当時の私もその“殺人出産”という小説にかなりの衝撃、いや衝動と呼ぶ方が相応しいのかもしれない、そういう感情を抱いた。10人子どもを産んだら1人誰か他人を殺してもいい、という内容の物語。その内容についてもそうだが、彼女の書く感情や状況の描写に引き込まれていった。彼女の書く小説に出てくる主人公は何かにどうしようもなく迷っていて、つまりその前提として何かにとらわれて生きていて、とても弱弱しいのに不意に心強い。いつかの自分のようだと思った直後、いや自分はこんな風ではなかった、こんなに滑稽ではなかった、自分のためにこんなにちゃんと苦しんであげられなかった。と、思い直した。登場人物の生々しい感情を、彼女はどこから沸き立たせているのだろうか、その答え、そんなもの正確にはないのだろうけど、でも彼女のエッセイ集“きれいなシワの作り方”を読んでいるときに、ほんの少しだけわかったような気がした。その、大人の思春期病をテーマにしたエッセイ集は、今回読んだ小説、“しろいろの街の、その骨の体温の”に少し似ていた。30歳を過ぎた彼女の体や心に起こる変化と、第二次性徴前後の主人公結佳とのそれとでは、その内容は異なる。だが、彼女たちの抱える漠然とした不安や肥大した自意識、それの処理に悩む様はかなりどっちもどっちだ。そして、こっちもこっちだよな、と思ってしまうほどに、彼女たちの痛みがよくわかる。ただ読んだだけの私の心身も疼いて、くらくらしてしまうほど軋んだ。

 “しろいろの街の、その骨の体温の”この意味深なタイトルの上を軽く飛び、超えるだけのものを書き上げる魔力が作者にはある。ニュータウンとして発展していく街の様子と、第二次性徴の真っ只中で苦しむ結佳とをニアリーイコールで繋ぐ描写が何度も出てくる。白く未発達なその街と、彼女の未完成な体を繋ぎ止めるしろい骨。予定通りに進まなかった街の発展と自分の性徴。この物語の重要な要素であるこの対比表現は見惚れるほどに美しい。それなのに、こんな美しい文章が書けるのに、気取ることなく人間の苦悩を真正面から描き続けられる彼女の強さと弱さは、ページを捲る度に私に近づいて、強がりという弱さを嘲り笑っているようだ。私はページを捲る微かな音で初めて、自分の弱さをひとつずつ認められたような気がした。誰にもバレないくらいほんの少しだけ、強がりが強さに変わってくれた気がした。私が学生時代に抱いていた同級生や学校を嫌ったり蔑んだりしていた気持ちは、結佳よりちゃんと尊かった。そう思い込もうとする私は、本当に、結佳にそっくりだ。だからもっと強くなれるし、きっともっとちゃんとキモくなれる。ずっと、物事の本質をみているつもりでいるこの目には、自意識や自尊心のほかに何が映っていただろうか。過ぎた日のことは、思い出せなくたっていい。

 私は子どものころ、少女漫画を読むのが好きだった。思えば、いきなり偉そうな態度をとって主人公の気を引く先輩や先生というお相手はいつも、ある意味では自慰的で暴力的な恋愛をしていた。それが主人公にハマって結果論的に甘美なストーリーになっていただけで、余裕そうな彼らだって、いつもその殻を被ることに必死だった。だからこそ読んでいて心地が良かったのかもしれない。彼女の作品の突拍子もない設定だって、主人公が登校中に運よくカッコいい先輩に出会うくらいの、有り得そうであまり実在しない、そういう世界だ。私は村田沙耶香という人物の、類稀な少女性に引き寄せられている。彼女の、一見結佳のようにひねくれているように見えて、本当は伊吹のように純粋で、信子ちゃんや井上のような強さと弱さと必死さももっていて、その他の今まで書いてきたすべての登場人物の性質を体内に併せもつその少女性。それこそが村田沙耶香という人物の、その身から滲み出る作品の、圧倒的な魅力を生成しているのだろう。彼女の少女性を説いたばかりだが、彼女という人間ほど大人な存在を私は知らないようにも思う。彼女の、その少女性に恐れずに立ち向かう様は、まさに人々が夢見る大人という存在そのものだ。だから臆病者だったはずの結佳に、私は守られているのだろう。この世界の不純なしろが美しい闇を呑み込んでしまっても、醜いこの社会の酸素を吸うために、大きく息を吐き続けたい。

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