官能と少女を読んだ

 宮木あや子著の短編集、官能と少女を読んだ。彼女、どこかで見たことのある名前だなと思ったら校閲ガールの著者なのね。

 「官能と少女」というタイトルと文庫本のカバーに興味を抱き購入してから1ヶ月経つか立たないかの昨日。買ったまま読んでいない本シリーズから抜け出したこの小説。感想文のようなものを書いていく。

 私は、短編集というものが結構好きだ。それは音楽でいうところのCDという形態に似ているし、もっと言うとアルバムのようでもある。それぞれの物語が独立して存在している。だがどこかで繋がっていたりテーマ(大枠)が同じだったりする。個人の短編集の場合作者の性質は勿論一貫しているから、それを様々な角度からみてやれる短編集は作品としての魅力度が高い。そして短い話の長所としての読みやすさもある。

 この短編集のタイトルにあなたは何を思うだろうか。「官能」と「少女」、それらが決して交わらない言葉だと思う人もいるかもしれない。だが私は、タイトルが表題であるべくしてあるように、それらは案外自然と関連づいてしまうものだと思っている。筆者が官能というテーマを取り扱ううえで何故少女を対象に入れたのか。いやもっと言うと何故小説たちは少女に引き寄せられたのか。その大きな理由を担っているのは、少女のあどけなさや純粋さでは決してない。寧ろその逆であったり、少女という素材をふんだんにあしらう運命的要素だったりする。環境に選ばれて生きている少女という存在が自ら環境を選ぼうとした際、矯正するのはいつだって環境を作ってきた側である大人たちだった。かつては少年少女だったはずのその正義が少女にとって悪であろうと正義であろうと、法律や道徳で決めつけられた正義は絶対的な存在だった。幼き少女の価値観を捻じ曲げたのが、いつか助けてやらなかったそいつらだったとしても。

 「人を愛することは自分を愛することだ」、「自分のことも愛せない人に他人のことなんて愛せない」、「人を好きになるのに理由なんてない」。恋や愛を語る言葉は沢山あるけれど、どれもやっぱり胡散臭く聞こえる。物語の中を彷徨い続ける官能と少女たちが愛していたのは一体、自分自身と愛おしかったはずの誰かのどちらなのだろうか。そもそもどちらか一つでも本当に愛していたのだろうか。だとしたら何がそれを確信させていたのだろうか。
苦しいときに誰かに縋ることは、言い換えると、自分の思考とその回路に縋るということだ。同じ対応を受けても、そのときの気分や捉え方で受け取り方は180°変わる。そうだとしたら他人を愛することは高度な解釈をし続けることだ。だからこそ、そこで何かに気がついてしまわないように、ばかであり続けるために、賢い人類はあえて欲に身を委ねるのかもしれない。

 事実とは異なる妄想も、頭の中に存在しているうちは立派な真実に成り得る。だけど他人に話した途端に現実を押し付けられて、あなたは間違っていると言われてしまう。だから私は人を好きになって、それよりももっと大きな力を以て、人間を嫌いになった。誰も信じられないのは私にとって自分以外の本当なんて存在しないからで、そんな自分の存在さえも曖昧なまま息をしているからだ。不義理なのかもしれないね。でもあなただって本当は、信じた気でいるだけなのかもよ。どっちにしたって妄想だけは裏切らない。こっちが裏切って洩らさない限りは永遠に。あの少女の結婚だって妊娠だって、あの子にとっては本当であり続けられたはずなのに。あともう少しで。
 
 「官能」と「少女」。不完全なそれとそれは互いに惹かれ合う。お互いにもっと、知りたいと願う。もしかしたら愛し合っているのかもしれない。同じくらい憎しみ合っているのかもしれない。官能が少女に惚れたのか、少女が官能に手を伸ばしたのか。いつだって曖昧なままの物語には3次元の世界みたいに温度があって、ずっと弱かったはずの少女はいつの間にかオトナになる。オトナを身に纏った少女は時に官能を拒む。いつかまた動物のフリをして官能を求む。いや、でもきっとその前にまた、官能はその舌の根も乾かぬうちに、少女たちの白い肌を絡めとっていくのだろう。いつか自死した少年に愛を込めて、see you.

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