死神の精度/伊坂幸太郎

 死神の精度を読んだ。伊坂幸太郎の小説の、分かりやすくも考える隙間の数多ある感じは良い。読んでいて退屈しないから愉快だ。

この物語も、以前から私の好むところとしている、短編集のような形態。ひとつひとつが独立した物語でもあり、それぞれが関連し合ってもいる例のやつである。各章それぞれに物語はあるが主人公はずっと死神の千葉だから、テレビドラマのような感じでもある。

 この小説、千葉を名乗る一人(?)の死神の話なのだが、その千葉の、非常に人間らしい部分が魅力的だったりする。読むにつれ、千葉の死神という設定は明確化されていく。それなのに、千葉は人間らしさを増していく。
千葉は死神として、人の生死に必要以上に執着しない。それに、人間の使う言葉のレトリック、人生観や死生観への理解・共感は薄い。だけどどこか人間らしい。読んでいると、なんだか自分に似ているなと思う瞬間が幾度もある。それはきっと私に限ったことではなくて、この物語の性質、もっというと本質なのかもしれない。

 死を実行するのが適切なのかどうか、対象に接触して判断するのが、千葉をはじめとする調査部の死神の仕事だ。だが、彼らは人の死にあまり関心がない。だから殆どの場合は実行可の報告を上げる。
この物語の中で唯一、千葉が「見送り」にした(と明記されている)のが、藤木一恵の死の実行である。その理由は、彼女が音楽プロデューサーに見込まれたからだった。彼女の音楽的才能が開花して、いつかどこかで彼女の歌を耳にすることがあれば愉快だという気持ちで、千葉は珍しく死の見送りの報告を監査部に上げた。
この物語上の死神はミュージックが好きで、勿論千葉も例外ではない。実行可の報告をせず、自分の利益、または愛すべきミュージックの発展を優先した。なんとなくという風にここでは描かれているが、他の対象殆どに実行可の判断をしている千葉にとっては、少し特別なことであってもいいはずだった。それなのに、流されるように見送りの判断をする描写の、「自分が納得するために用意した言い訳」っぽさに、とても親しみを感じてしまうのは、私が千葉に似て思慮深いからなのだろうか。

 千葉は何千年も前からずっと(もしかしたらもっともっと長い期間なのかもしれない)、仕事を与えられては人間の姿になり、対象を調査してきた。そのなかで、いろいろな人と出会い、知らなかった言葉を耳にし、様々な経験をし、新しい景色にも出会う。人間とはどうしていつもこうなのだろうかと、度々疑問を抱く。
だが、私たち人間だって、渋滞は醜いと知っている。だけど渋滞に巻き込まれる。いや、渋滞や行列を作ってしまう。何故だと千葉は不思議がるだろうが、彼だって、何度も面倒を引き受けている。仕事だからだ。この「仕事だからだ」という言い訳があれば、私たち人間も少しは生きやすくなるのだろうか。彼にとって死神が仕事であるならば、私たちにとっては人間をやることが仕事だということになる。だからもしかしたら、語尾に「人間だからだ」と添えるとすべて許されるのかもしれないな。と思うと同時に、かの有名な「人間だもの」という言葉の軽妙さを得た。

 ミュージックは敬愛しているけど「かたおもい」が理解できないところとか、新しい景色に出会った時のなんか清々しいという感覚とか、人間の価値観に対する興味とか、千葉の人間らしさは挙げると腐るくらいある。最も、私は恐らく死神に出会ったことがないから、死神らしさがなんなのかなんて知る由もないが。そもそも、死神が人間に引き寄せられているのか、はたまたその逆なのか、つまり実在するのかどうかも私は知らない。ただ、千葉のように人の死を見届けることも死神の役目の一つであるならば、私も死神に成り得るのかもしれない。考え方次第で物事の見え方は変わる。

 さて、今さら伊坂の技術やら、この小説の一篇としての緻密さやらを語るのは、人間の私にとってはあまりにも野暮なことである。

不器用だけど、ミュージックへの愛が人一倍ある(人ではなく死神なのだから無理もない)千葉が、今日もその愛を貫いているといい。
なんて、下手で月並みな締めになってしまった。月並みと言っても私はあくまで人間である。あっ、この注釈の、「あくま」も千葉の琴線には…と永遠にレトリックに突っ込みを入れていると、作者の密かな快楽が見えるようでも、その途方のなさ故の絶妙な匙加減を称賛しておきたくなるようでもある。

小説を読むのは、他人の喜怒哀楽や経験を追体験しているようで面白い。最も、この物語の主人公は、(いや、主神公は、)人間ではなく死神、なのだけど。

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