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「考えた気分」で満足していないか|#117

最近、脳みその「シワ」が減ってきている気がしてなりません。比喩ですけど。「思考」にかける時間と体力が減り、結果的に「思考する力」が衰えているような気がしてならない……、という話です。

原因は「思考した気になりやすい」環境にあるかなと。「他人が考えたことを読んで、『うんうん』と納得して、満足して終わり」になっていることが思った以上に多い。それに伴って「自分の力で頭に汗をかいて考える」機会が激減しているのではないかと感じるのです。


多様なSNSツールが発達し、誰もが容易に発信できる時代。とても便利ですし、私も恩恵にあずかっています。多くの人の思考に簡単にアクセスでき、実生活ではつながりを持ちえなかったはずの人と人間関係を作っていけるんですから。


ただその便利さが自分の思考する力を奪っているとしたら?


私が日常的に使っているSNSはnoteとTwitterですが、たった2つだけでも1日に目にする発信の量はかなりの数に上ります。

皆さんの発信を見るのは、実に興味深い。自分では全くかすりもしなかった視点や知らない世界の話を聞けるのは、本当に面白いことです。『なるほどなー』『わかるわかる』『へぇ、そうなんだ!』、いろいろな感想が浮かびます。

でもね、そこでストップしていることも思った以上に多い。正直言って。恥ずかしいんですけど。
時間をかけて読み、『なるほどなぁ』と何かしらの気づきを得たのに、気づきを深めたり発展させたりすることがほとんどない。文字通り、情報が流れているだけ……。

でも「気づきを得た」という脳内感覚があったから、「思考した」気分には浸れるようなんです。実際は気づきを得たほんの一瞬、脳にバチッと電流が流れたに過ぎないのに。


誰かの「発信」は、あくまでその人の思考の結果です。自分の思考を得るには、気づきを発展させ深め、自分で考えないといけないはず。

そんなごく当たり前のことなのに、「発信」を追いかけることに一生懸命になると簡単に置き去りにしてしまうようです。

これは発信の受けとり方の問題、つまり私自身の課題です。


「考えた気分」というのは、なかなか厄介ですね。「気分」であり、自分なりの思索が伴っているわけではないのに、脳は満足してしまいやすい。

なぜなら「考える・思考を深める」行為というのは、時間も体力も必要だから。人間の脳というのは省エネ運転が大好きだから、つい大切な部分をさぼり、かりそめの満足に浸りやすいのかもしれません(私だけか)。

せっかく時間をかけて発信や情報を得ても、自分の頭で考えるということをしなければ、得るもの・残るものは何もないんだぞ。


そんな気づきを深めた自省noteでした。

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