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令和6年能登半島地震。石川県へ帰省する途中で地震が発生した記録。

2024年1月1日(月)16時10分。わたしが石川県に帰省するために乗っていた、特急サンダーバード31号金沢行きが京都駅を出発した同時刻に、令和6年能登半島地震が発生した。

石川県では最大震度7、サンダーバードの目的地である金沢市でも震度5強の地震を観測。本記事では、地震が起きたそのときの車内の様子と、その後わたしがどのように対応したかを記録しておく。

▶️筆者プロフィール
Miyu(ライター/編集者)
石川県出身、東京都在住


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楽しい京都旅行と石川帰省…のはずだった

都内に住むわたしは、地元の友だちと現地で落ち合って大晦日に京都滞在を楽しみ、元旦は初詣をしてから石川へ一緒に帰るという帰省のプランを立てていた。

大晦日から元旦のお昼にかけてはたっぷりとお正月ムードを楽しみ、1泊2日の京都旅行を堪能した。

そしてわたしたちは、事前に予約していた特急サンダーバード31号金沢行きに乗車し、列車は定刻通り16時10分に出発。すると、ほどなくして車内の誰かのスマホから嫌な感じのする音が鳴った。

緊急地震速報だ。

能登半島地震発生(16時10分)

わたしのスマホにも防災速報アプリから通知が届いた。

最大震度6強。石川県能登。

…え?

時が止まる。

そしてまたすぐに新しい通知が鳴る。

最大震度7。石川県能登。

引用:防災速報アプリ

震度7 石川県志賀町。原発のある町だ。

そこからしばらくして、今度は大津波警報の通知が届いた。

「これ…石川県終わっ…た…?」

こわばった表情でわたしたちは顔を見合わせた。列車は止まることなく、金沢に向かって走行している。

緊迫の車内アナウンス

少しの時間が経ったあと、目的地である石川県での地震発生について車内アナウンスが流れた。

「石川県で震度7の地震が発生しました」

車内は、ざわめくどころか異様な緊張感でシンと静まり返っていた。みんな、北陸に向かっている。おそらく家族がいて帰省する人が多いだろう。

「列車は次の近江今津駅で緊急停車します。なお、運転再開の見通しは立っていません。」

これからどうなるのかという空気が車内に流れた。

近江今津駅で緊急停車→運転取り止めに

列車は、滋賀県高島市の近江今津駅で停車した。その後どれくらい経っただろうか。しばらくして北陸方面の運転が取り止めになったというアナウンスが流れた。

声は震え、時折言葉を詰まらせながら絞り出すように届けられたアナウンスからは「ただごとではない」という雰囲気が読み取れた。

親が避難しない!

列車の走行中、わたしは速報を受けて弟にLINEをし、自宅に電話をかけるように頼んでいた。実家は海が非常に近い。

「大津波警報が出てる。津波が来る!」

瞬時に事態を理解した弟が電話をかけ避難するように説得するも、親は頑なに避難しないと言い電話を切られてしまった。猫がいるから避難したくないと言ってきかないのだという。

痺れを切らしたわたしはデッキに行き、自宅に電話をかけた。電話には母が出た。その後ろでどうやら父が猫をケージに入れるために捕まえようとしているようだった。

避難所はペット同伴でも大丈夫であること、そしてすぐ近所に住む同級生の親もすでに、高台の施設に避難していることを伝えた。(LINEが来た地元の同級生とも同時進行で連絡を取り合っていた)

2匹の愛猫たちはわたしにとっても
絶対に置いて逃げることのできない大切な家族だ

しかし親はそれでも「津波、本当に来るかなぁ?」「近所は誰も避難なんかしてないよ」「猫を置いていけない、それならここで死ぬ」「知らない場所は猫が可哀想だから」などとああ言えばこう言うで、会話が一向に噛み合わない。

まるで他人事のように呑気な態度に、わたしは思わず「近所なんか関係ないだろ!!早く猫を連れて高台に逃げろ!!死ぬよ!!!」と叫んだ。

1分の決断、再び京都へ(17時42分)

しばらくして、猫を連れて高台の親戚の家に避難をしたという連絡がきた。座ったまま腰が抜けた気がした。

その後、車掌さんが巡回して京都行きの列車もあることを案内してくれていたが、近江今津駅で運転取り止めとなったサンダーバードについては、このあとどうなるのか不明なままだった。

友だちは「どうしよう…」という様子だったが、わたしは、このままどうなるかわからない車内でひたすら待つのか?それとも関西方面に戻って今日の寝床を確保するのか?それを一刻も早く決断しなければならないと考えていた。

今のところ使えている車内のトイレや電気も、時間が経つにつれてどうなるかわからない。寒い夜間に暖房が止まるかもしれないし、スマホも充電できなくなるかもしれない。

窓から駅の周りを見渡しても何もなさそうな場所で、ここで下車しても夜を過ごすのは厳しそうだった。それにまた大きな地震がくるとも限らない。

わたしは「寒い」と「お腹空いた」は簡単に人をバグらせ不安にさせることをわかっていたので、ただでさえ高ストレスな状況下でそれだけは絶対に避けなければならないと思った。

その後トイレに立ったわたしは、ホーム向かいに停車していた京都行きJR湖西線の列車前に車掌さんたちが立っているのを見つけ、サンダーバードを降りて声をかけた。

京都行きの列車について聞くと、停車中の列車は17時42分発で19時ちょっと前に京都に着くという。それを逃すと次の列車は18時24分発で約40分後。かなり空いてしまう。

このときの時刻は17時41分。発車まではあと1分。わたしは乗車することを即決し、急いで向かいのサンダーバードに戻る。

「あと1分で向かいの京都行きが発車するって!これを逃すと次は40分後らしい。このままサンダーバードに残っても仕方ないしすぐ行くよ!」と、少し声を張って友だちに伝えた。

他の人たちも、このまま車内に残るか関西方面へ戻るかを決めかねている様子だった。誰も正解を持ち合わせていない。しかしこのまま車内に残っても、どちらにせよ今日はもう目的地である北陸方面に行くことはできない。

わたしは荷物を掴み友だちを半ば強引に連れて、ホーム向かいの列車に乗り換えた。列車は、定刻通り近江今津駅を発車した。

京都着(18時47分)

ホテルの確保

京都へ向かう車内で、急いで京都駅前のホテルを確保した。予約手続き途中で埋まってしまったホテルもあったので、あれ以上判断に迷っていたら京都駅の徒歩圏内で泊まることも難しかったかもしれない。

きっぷの手続き

京都駅に到着したわたしたちは、地震の影響でサンダーバードから乗り換えて京都に戻ってきたことを改札窓口で告げた。

そのままみどりの窓口に行くように案内を受け、ひとまず翌日東京に帰るかもれないわたしの分だけきっぷを払い戻しした。

地元の友だちは、翌日のサンダーバードの運行状況によって払い戻しにするか振替にするか決めたかったため、ここでは一旦手続きをせず保留にした。(早割料金できっぷを取っていたため、もし払い戻し→翌日に取り直すと定価で買う必要がある)

ホテルにチェックイン

そこから、一泊分しか荷物を持ってきていなかった友だちの着替えを調達することにした。間に合わせの衣類なのでユニクロで買いたかったが、元旦のため営業していなかった。

駅前のドンキが営業していたのでそこで着替えを調達し、コンビニで夕飯を買ってホテルに向かった。

チェックインを済ませて部屋に入り、わたしたちはようやくテレビを観ることができた。輪島の街が燃えていて、言葉にならなかった。

こんなときなので、あえて温かいものを食べて少しでも安心感を得ようと買った蕎麦を、二人で黙って食べた。

あんなに楽しく過ごした京都旅行からは、想像がつかない時間だった。

石川行きか東京行きか(翌10時30分)

早々にホテルを確保し、しっかりとお風呂で身体を温めてベッドで眠ったのは正解だった。

実家が心配で夜中に何度も目が覚めたが、こんな時間を万が一車内で過ごしていたらと思うと、とても耐えられなかったと思う。

翌朝、サンダーバードが臨時列車を運行するという情報が出ていた。わたしたちは身支度を済ませて早々にチェックアウトし、再び京都駅のみどりの窓口へ向かった。

案内板を見ると、午後からサンダーバードが運行するようだった。

帰ろうと思えば石川へ帰れる。親のことが心配だし顔が見たい。わたしが行けばきっと二人で暮らす両親も安心する。何より、お正月の帰省を何週間も前から心待ちにしていろんなものを準備してくれていた。

母との大晦日のLINE

わたしが優先すべきことは何?

しかし、金沢駅から実家までの在来線が1月2日は終日運行することがすでに決まっていたこと。加えて実家がついに断水してしまったことを受けて、最終的には帰省を見送り、東京へ戻ることにした。

実家へ帰っても、トイレ・お風呂・洗濯・料理、あらゆることがいつも通りにできない。水や食料が不足してくる中で、わたしの分が必要になると親の分を減らしてしまうことになる。

さらに、最悪わたしまで被災してしまった場合、そのすべての対応を弟が一人で被ることになる。それはあまりに申し訳ないと思った。

弟と相談した結果、まずは自分たちの安全を確保することを最優先とすることにした。

親のことは当然に大切だし心配だ。しかし、いざというときわたしが親を担いで逃げられるわけではない。行動として現地で役立てることは、実際のところそんなにない。

わたしは、東京に戻ってきたことをもしかしたら後悔するかもしれない。けれども、その時点での自分なりの最善の判断をしたと思うしかないのだ。

そうして、1月2日の夕方に帰京したわたしは、今こうやってnoteを書いている。記憶がまだ新しいうちに。

この出来事を振り返って

令和6年の元旦は、多くの人にとって忘れることのできない日となった。わたしが今回の出来事を通じて実感したことを、雑多ではあるがいくつか残しておきたい。

有事の際に大切なこと

大切だと感じたのは、素早い決断と行動。そして、自分にとって何が一番大切なのかという価値観の確認だ。

判断が難しい事象は、あらかじめ答えをもっていないのだから迷い続けることにほとんど意味はない。このようなときは、迷って後手後手で動いて得するようなことはおそらくあまりないと思う。

また、他人がどうするかではなく、自分は何を最優先に守る必要があるのか。何が最も大切なのか。そうした価値観や判断基準を普段からもっていないと、いつまでも決断することができないのだとわかった。

高齢者との意識疎通は困難

正直、自分の親とこんなにも意思の疎通ができないものかと非常にショックだった。

よい方法を模索したり、状況に応じて臨機応変に考えたりするということが、年齢を重ねるにつれて次第にできなくなるのかもしれない。

とくにわたしの母のように、物事や場所へのこだわりが強い、日頃のルーチンを崩したくない、不測の事態にパニックになりやすいという場合は、言うことを本当に聞かない。

父も加齢と持病のせいか、会話の成立がかなり怪しかった。70代なので単純にボケてきているのも、もしかしたらあるのかもしれない。

これらについての解決策をわたしは残念ながら持ち合わせていないので、高齢者に伝わるコミュニケーションについてのいい方法をご存知の方がいればコメントやリプライで教えてほしい。

デフォルトの持ち物

いつどこで何が起きるか本当にわからない。外出時スマホはなるべくフル充電をしておき、モバイルバッテリーと飲み物は今後どこへ行くときも持ち歩こうと思った。

以上が、わたしなりのこの出来事からの学びだ。


令和6年能登半島地震で被災されたすべての方にお見舞いを申し上げるとともに、一刻も早く日常を取り戻せることを心から願ってやまない。

どうか、皆さん引き続きお気をつけください。

【最後に】 非常時に備えて

今回、改めて防災グッズの見直しをしようと思った方も多いかと思う。わたしもその一人だ。

防災グッズはあらゆるものが挙げられるので、今回はわたしが両親や地元の友だちと会話をする中で、これは必要だと強く感じたものを最後にいくつか紹介する。

万が一のときのため、改めて備えの内容を見直したい。※以下PRリンク

飲料水

以前、石川県で大きめの地震があった際に実家に送っておいた水のストック。これが今回の断水で役立っているようだ。やはり水は普段からストックしておいたほうがいい。

非常用トイレ

断水ではトイレが流せないことも非常に困っているとのこと。このような非常用トイレもあらかじめ準備しておくべきだったと反省している。

ドライシャンプー

お風呂にも入れないので、頭皮とボディに使えるタイプのドライシャンプーや、シャワーシートが重宝しそうだ。

電源・充電器

情報や連絡を絶やさないために、電源や充電器は必須だと感じた。電源はさまざまな種類があるが、わたしはアウトドア用でライトも付いているようなものを買おうかと検討している。

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