第3回 常駐コンサルは2年で辞めました
ALOHA! みゆひょんでーす♪
独立して最初のお仕事は常駐のITコンサルタントで、大阪に単身赴任しました。
このときの話はけっこうおもしろかったので、ディテールを書き始めようとしたのですが、よくよく考えてみたらITコンサルタント時代の経験は本筋とは関係ありません。
ここまでで言いたかったことは、
会社勤めでいろいろあって、逃げるように独立しました
そんな感じでしたので、いきなり「若造」にいろいろ言われちゃいました
伴侶さんもどちらかと言えば冷たかったです
ぐらいなんですよね。
課金までしていて、それでいいのか?(といってもお金を払ってくださった方は2人ぐらいで、どちらも知人だったりしますが)
ということで本筋、つまりBtoBライターに関係するところ以外ははしょっていくことにいたしました。
マネーリッチよりもタイムリッチ
大阪でのお仕事は、初日の予感通り、なかなかの泥沼プロジェクトとなりました。
そのうち、わたしが得意とする分野ではないお仕事が中心になっていったので、元々のお約束通り半年で大阪をあとにし、同じエージェントさんが探してきてくれた東京のお客様のお仕事を始めることになりました。
阿部さん(仮名)には、たいへんお世話になったので、今でももうしわけない気持ちがあります。
東京でのお仕事は、とある公益社団法人のお仕事で、とてもとても条件の良いお仕事でした。
何しろ常駐とは言え週4日でよく、副業もOK(フリーランスなので当然なのですけれど、いやな顔をする会社もあるみたいです)、それでいて報酬もなかなかステキでした。会社員時代よりもずっと良かったのです。
そんなお仕事もけっきょく1年半で辞めてしまいました。10年も続けていたら、かなりお金を貯められたと思います。友人の中には、あからさまにわたしをバカだと言う人もいます(悪口ではなく、「もったいない」ぐらいの意味なんですけどね)。
なぜかと言うと、1つはあまりお役に立てている実感がなかったのです。業務知識がかなり複雑で、わたしはいまだによくわかっていません。プロジェクトマネジメントの改善には若干貢献したと思っていますが、それでこの条件と報酬はないだろうと思ったのです。
かと言ってプレッシャーをかけられたわけでもなく、わたしが辞めると言ったとき、当時の部長さんは、「いてくれるだけでいいんだけど・・・」と言ってくださいました。ただ、それで余計に辞めたくなったのですが。
しかしもっと大きかったのは、週4日とはいえ1社のお仕事に縛られるのは、独立した意味がないと思ったことです。これでは保証のない契約社員だなあと。
ちなみに契約社員と正社員の違いは、雇用期間が契約書に明記されているのが契約社員で、そうでなく定年まで働けるのが正社員ということだけ。それ以外は基本的に違いはなく、契約社員にも賞与や有休もありますし、社会保険料も会社が半分払ってくれます。契約社員には、けっこう保証があるんですね。
フリーランスとして勝負するつもりで独立したわけでもないのです。ただ逃げた結果、独立することになっただけでしたので、かっこうのお仕事をいただいていたのですが、わたしはもっと自由が欲しいと思ったのです。
マネーリッチよりもタイムリッチを――わたしが目指していたのは、これだと気づいたのでした。
こういうことも子どもがいたらなかなか言えない、わがままなことだという自覚があります。しかし逆に子どもはいないし、伴侶さんはバリバリに働いているんだから、目指さない手はないとも考えたのです。
そう思ったら、お仕事がつらくなってきて、社員の方ともちょっと人間関係のトラブルがあって、メンタルがおかしくなってきました。
1999年に心を壊して以来、メンタルの落ち込みにはとても敏感になっていました。それで条件も報酬もとても良かったお仕事を辞めてしまったのです。2007年の秋ことでした。
わらのような手がかりだけでフリーランスに
このときも、逃げるように常駐コンサルタントからフリーランスになったのでした。
とはいえ、まったくあてがなかったわけではありません。わらのようなものですが、2つだけ手がかりがあったのです。
1つは、出版が決まっていたことです。もう1つは、事例記事執筆のお仕事があったこと。
今となっては、自分の本を10冊、ひとさまの名義の本を60冊以上書かせていただいているのですが、当時は自著を出すこと自体がまず夢の夢でした。企画が通ったとしても、本1冊分も書けるのかということもありました。
だから本を出せれば、それだけでフリーランスとしてものすごいアドバンテージになると思っていたのです。
事例記事執筆に関しては、知人の田口さん(仮名)のお誘いでした。田口さんはわけあってフリーの事例ライターとして独立し、お仕事が増えてきて自分だけでは回らなくなったので、契約ライター制度を始めたところだったのです。
お客さまとしてはIT企業が多いということで、ITがわかって文章も書ける人間を募集していて、わたしには直接声がけがあったのでした。本を出す予定もあったので、かなり好条件で契約してくれました。
わたしとしては事例執筆で食いつなぎつつ、出版実績をもとにビジネス化していこうと考えていたのです。
しかし、甘い考えでした。
ところでなぜ出版することに?
ところで、自著の出版など夢の夢だったと述べました。いつかは自分の本を出したいと思っていたはいたのですが、どうすれば出せるのかまったくわからないかったのです。小説の新人賞を獲れば出せるぐらいの知識はありましたが、そんな才能はありません。
では、どうして出版にこぎ着けたのでしょうか? なるべく手短にまとめたいと思います。
営業として転職したとき、つまり会社員時代末期に、ビッグサイトの展示会で10分程度の商品紹介をする機会があったのです。
わたしはプレゼンテーション的なことが苦手でした。今も得意とはいえませんが、当時はかなりひどかったのです。それでプレゼンのセミナーに行こうと思っていたのですが、セミナーのやり方を教えるセミナーというのがありまして、そちらに引かれたのです。
というのはコンテンツの作り方をかなり詳しく教えてくれる内容だったからです。また既に独立というのが頭にありまして、フリーのコンサルタントが集客のためにセミナーをやるぐらいの知識はありました。それで将来役に立つかもしれないと思ったのですね。
参加費は2万円ぐらい(その後どんどん値上がりしていきました)でしたので、会社に出してほしいとお願いしたのですが、営業が外部セミナーを受ける場合には補助しないと言われてしまいました。ただ平日のセミナーだったのですが、業務時間での受講にしてあげるというので、自腹を切って参加したのです。
講師は土田さん(仮名)という方でした。当時、セミナー講師のためのセミナーをやっていたのは土田さんぐらいで、全国からセミナーでの集客を目指すフリーのコンサルタントが集まってきていました。
土田さんは、人脈のハブになることで自分にメリットがあると考えていたので、セミナーと同じぐらい懇親会にも力を入れていました。
ここで得た人脈でけっこう助けられたので、その点については今でも土田さんに感謝しています。ただいろいろあって、今ではすっかり疎遠になってしまいました。
先ほどの田口さんとも土田さんのセミナーで知り合ったのでした。わたしが受講した日は、セミナーの様子を撮影するカメラマンとして参加していました。懇親会でかなり話をしたことを覚えています。
大阪での単身赴任を終えて東京に戻ってきてから、土田さんに有料でビジネスコーチをお願いしていたことがありました。そのときに特典ということで、土田さんのセミナーと懇親会の両方に参加させてもらっていたのです。ただし懇親会は自腹で参加する上、接客係をせよとのこと。
だから一時期、わたしのことを土田さんの手下だと思っていた人もいたようですが、土田さんはわたしの人脈形成のためにそうしてくれていたのでした。そのころに知り合った人の中に、出版プロデューサーの越谷さん(仮名)がいました。
土田さん自身は、セミナーを教える前に禁煙コンサルティングをしていました。セミナーも禁煙コンサルの集客のために始めたのです。そのせいか参加者でタバコを吸う人が少なかったのでした。越谷さんは珍しくタバコを吸う方で、わたしも当時はヘビースモーカーでしたので、喫煙所でお話しする機会があったのです。
それでちょっと親しくなって、自分の状況も話したところ、2006年の暮れに越谷さんが開催した「夢をかなえるセミナー」というのに無料で招待してくださったのです。
それが最終的に出版につながったのですが、1つだけお断りしておくと越谷さんがプロデュースしてくれたわけではありません。偶然に偶然が重なって出版にまでこぎつけたのです。
なるべく手短にまとめるつもりでしたが、続きます。
自分のしたいことと向き合うことで、わたしはしあわせになれたと思っています。わたしの生き方を知って、ちょっとでも癒やされる人がいればいいなあという気持ちで書いています。スキやフォローは本当に励みになりますので、よろしくお願いいたします。