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ちじょうと てんじょうの はざま舟



今日はとてもよい天気だった。

ガタゴトと車を走らせながら見上げた空は、どこまでも無限に澄んでいた。
空に何かが浮かんでいるのに気が付くまでは、ほんとうに何気ない昼間だった。なんだろうとよく見ると、透明な風船のようなものがいくつも空にいる。高度の高いものはゴマ粒くらいだが、低いものではそれが腎臓のような形状をし、なかに人影があることも見てとれた。

‘ のりもの! ’
 
こんなものが出回っていることに関心し、周りを見ると同じように見上げて注目している人たちがいる。動画を撮影しながらさっそく拡散していた。

帰り着くと妻は、家のなかでいつも通りせっせと動き回っていた。自分には目もくれず、こわい顔してまるで工事現場のようだ。興奮冷めやらぬままさっき見た光景のことを話すと、分かったような分からないような表情を浮かべ、また工事に戻っていった。

再び外へ出ると、空にはやはりあの舟が浮いていた。

‘ わたしもほしいな! ’

そう思ったとたん、なんと一台が空中からすっと、目の前に降りてきた。
どうぞ、と言わんばかりに扉が開く。

驚きながらも自然に乗り込み、操縦席に着いた。ドアが閉まるとまるで透明な球体のなかにいるようだ。ハンドルらしいものに両手を置くと、舟は自動的に進みだした。どうなっているのかは解らないが、どうもこちらの意思を汲んで動く仕組みになっているようだ。車のようにそれは車道をまっすぐに進んだ。足先にあるちゃちなペダルがおそらく空中浮遊のスイッチになっているのだろう、勢いをつけて助走し‛ とべ ’ と願いながらペダルを強く踏んだ。

しかし機体が一瞬は傾くものの、ただのアクセルのようにぐん、とスピードが増すだけで浮かない。
‘ とべ! ’ ‘ とべ! ’
何度強く踏んでも、ぐおん、ぐおん、といいながら地べたを進むだけだった。

がっかりしながら降りた。立ちすくんで見渡すと、同じ乗り物で挑戦したものの電柱に衝突したものやら、車道を立ちふさいで停止しているものやら、交通の混乱を起こしているもので辺りは騒がしくなっていた。

浮かんでいる空の舟を仰ぎ、
あれに乗っているのは何者なんだろうか、ぼんやりと考えた。

その日から、あの乗り物を危険視する人が数を増し、テレビやネット上で ‘危険’ ‘モラル違反’ と、乗っている人に対する誹謗中傷が炎上した。製造業者を特定できないまま、実際に規制もされるようになった。

またいつものように、車でガタゴト地べたを走り、工事中のわが家へ帰る日々は続いた。

その日、妻の機嫌はことさら悪く、冷たく、自分が何かをやってしまったのか、それともやらなかったのか、分からないことに腹を立てていた。

ずっと、そんなことはふつうだった。そのはずなのに、そのとき心のなか何かが ‘ わっ ’ と吹き上がった。

‘ もうここにはいたくない! ’

外にとび出ると、乗り捨てたはずのあの舟が停まっていた。がむしゃらに乗り込み、走った。

モウ ココニハ イタクナイ・・・

地上の面は そのとき ペダルを踏まずとも静かに離れ始めた。

地上と 天上の はざまの面にまでのぼった。

ふと、地上を見ながら心に、これまでの思い出がじんわり湧きあがる。すると舟は地上面へと吸い寄せられた。

握っていた思い出が心から自由になってゆくと、再び舟は浮かびあがりある点までくると、それを境にくるんとひっくり返った。

舟はそのまま、漆黒の天上へと引かれ、落ちていった。

どこまでも。そしてもう、二度と、戻らなかった。