「彼は、誰でしょう?」

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コンコン、    冷たい音がした。

木の戸を開けると、一人の男。

そして冬の夜の空気。

肌が白く、身体の線も薄い、どことなく頼りない彼は、私の旧知の知人だ。

彼の視線は、時々私に触れそうで、触れない。

「大丈夫かな。」

誰が、どう大丈夫なのだ。

彼を家に上げるのは嫌だったけれど、吹き付ける風に押されるように

言葉もなく、迎えた。


次の日起きると、彼は既に起きていて、ソファの端に腰かけていた。

遠慮してか、電気もテレビもつけず、放心している。

彼は、私の友人でも彼氏でもない。

「今回はなぜ来たの?」

訊くと、彼は困ったように俯いた。

「少し用があるから、それが済むまで…」

「いつまで居るの。」

「うーん」

「…出来るだけ早く帰ってよね。私も色々あるんだから。」

彼の用が何かは、興味がなかったので訊かなかった。


一日が始まると、彼はまるで同居人のようだった。

洗濯、食器洗い、風呂掃除。

物静かに、さりげなく、私と一緒にやった。

私は仕事で忙しくって、あまり彼を気にしなかった。

でも、ごく普通の家族みたいに、最低限の会話もした。

何も欲さない彼といると、苛々したり、世話したくなったりした。

何となく落ち着かず、ネットショッピングを沢山した。

遠慮がちにも腰を落ち着けている彼は、

まるで何年も飼っているまりものように見えてきた。

そうして何日かが過ぎた。



ある日、夕食後にテレビの前でくつろいでいると

彼がガラス戸の向こうの庭先で何かしているのが目に入った。

「さむっ…何をしているの。」

「あ、これ…。」

彼は、なにかを撒いていた。

パラパラ、ぴしゃぴしゃで

それなのに少しぬるっとした 見たこともないもの。

かがんで見ると、ジェルのような、粒子のような。

「何これ、気持ち悪い。」

彼は少し触って見せて、こう答えた。

「これ、仕方ないんだ。この家みたいに古い建物は、これを撒くんだよ。」

なんだそれ。聞いたこともない、変なことを言い出した。

「何言ってるの。勝手にしないで。別にうちには何の問題もないのよ。」

「…でも、」

「私の大切な、私の家なのよ。何なのか説明して。」

少し口調がとがって、彼を見た。

彼は、苦しそうに眉間にしわを寄せて、その表情を隠すように俯いた。

それが何かは言わないくせに、あまりに苦しそうだった。

面倒だ。

「もう、やめてね。おやすみ。」


それから、彼は同じことを繰り返した。

庭先だけではなく、玄関、窓の隙間に少し、謎のものを、撒いた。

その場に私がいれば力ずくで止めるのに、彼はいつの間にか撒いていて、

私が見るのは、撒き終わった後。

それは比較的すぐに気化して消えるようだったが、余計に気持ち悪かった。

気に障る。

そもそも、彼は私の家に居る権利がない。

それどころか、彼が一体何者なのかも、よくわかっていない。

彼は、何を撒いて、何をしようとしているんだろう。

少し怖くなってきた。


彼が家に来てから1週間が経ったある日。

私は久々に何もない休日で、遅くに起きた。

ドアを開けてすぐ、彼のかがんだ背中とバケツが見えて、私の手はびくんと反応した。

「ねえ、ねえ!ふざけないで!やめてって何度も言ったよね?あなた何しているの!

一体何なの。私の家なのよ?わかっているの?迷惑なのよ。

今すぐに出て行って!」

無言の彼に、自分の腿を叩いて、口任せに言葉を浴びせた。

朝からこんな声が出るなんて、自分でも少しびっくりだ。

それでもお腹の奥から沸き立つ怒りはふつふつとして収まらない。

収める義理も、ない。

「もうあなたにここに居る権利はないわ!二度とこないで!」

立ちすくむ彼。息の弾む私。

なぜか、悔しいことに涙も出てきた。

泣いて、私は彼に願った。もう、私の世界を汚さないでよ…

彼は、呆然と私を見つめた。

手や足を洗わぬまんま。


すぐに、私は家を出た。

公園で暇をつぶし、スーパーで買い物をし、幼馴染の美奈子にカフェで落ち合った。

美奈子の前では、彼のことは話さなかった。

まだ怒りと、やるせなさとがうずめいて、整理できなかったから。

美奈子は急な誘いに驚いていたけれど、

いつも通り、仕事の事、彼氏の事、友人の事、

一通り話して、カフェラテを飲んだ。

私もそうした。

夕方ごろにカフェをでて、川沿いを歩いた。

朝の事件が嘘のように、心が落ち着いていた。

こんな風に過ごしてくれる友人がいるのは幸せだと思った。


美奈子と別れて、彼のことを一人で考えた。

何日も一緒に暮らしていたのに、

彼のことをゆっくり考えるのは初めてだった。

何故、あんなことをしたのだろう。

いくら変なものではないにせよ、嫌だと言っているのに、撒くなんて。

しばらく考えたけれど、分からない。

そもそも彼のこと自体よくわからないのだから。

彼は、うちにいる間、何も欲さなかった。個性なんて、感じられない。

思い出そうとしてなんとなく心に浮かぶのは、

彼の心許なさそうな顔。

私が余裕のない時に限って、いつもそういう顔をするひとだ。

まるで子供のように。

私は、彼にどう接していただろう。

彼は、どうすると、ああいう顔をやめるんだろう。

彼の事なんて、何も分からないんだ。


夜になって、

重くて温かいお気に入りの扉を開けて帰った。

家に入ると、彼はもういつもの物置部屋で寝ていた。

静かにふすまを開けた。

布団を抱え込むように、眠る彼の背中。

「…ごめんね。もうあんなには怒らないから。」

自然と、もう許したかったのだ。

彼の寝息が、少し聞こえた。


目を覚ますと、もう彼は居なかった。

元々荷物も少ない人で、何も残さず、いなくなった。

彼一人いなくなっても、なんということはないのだった。

だがしかし不思議なことに、いなくなったのは彼だけではなかった。

なんと、家じゅうの壁の厚みがなくなり、薄く、透明に、揺れているのだ!

はじめは頭がおかしくなったかと思ったが、徐々に妙に納得した。

空の見える家の風景は悪くなかった。

私は心のどこかで、彼が昨夜の私の言葉を聴いていたことを知っていた。

彼のいた場所には彼の気配が残っていて、なんだか嬉しくさえ感じた。


彼はもうこないかもしれない。

あるいは、突然また、忘れた頃にやってくるかもしれない。

もし次があれば、

もう少し、彼に良くしてあげたい。





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