文字を持たなかった昭和 二百三十三(ニンジン料理) 

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)が、冬の収穫物ニンジンの「余り」である葉っぱを使って白和えを作っていたことを書いた。

 ニンジンに限らず、作物を市場に出した残り、あるいは出せない品質のものは「自家用」として自分たちで食べるか、近所にお裾分けすることになる。ミヨ子たちの集落はほとんどが専業あるいは兼業の農家だったから、同じ季節には同じような作物がバッティングするので、かなりの割合で自分たちで消費することになった。もちろん、ニンジンも例外ではない。

 だから、冬の初めくらいになると、家の食事の「ニンジン率」が一気に上がる。みそ汁の具もニンジン、煮物のメインもニンジン、かき揚げにもニンジン……といった具合。ミヨ子の料理のレパートリーはそれほど広くなかった――ひらたく言うと、それほど料理上手ではなかった――から、ニンジンを入れた同じような料理を、毎日のように作ることになった。

 その伝で言えば、葉っぱを使った白和えなどは、まだ相当工夫したほうだろう。ただし子供たちには好評とは言えなかったが。

 ミヨ子が工夫して作ったニンジン料理のひとつは、ニンジンと卵の炒め物だった。と書けば、沖縄料理の「ニンジンシリシリー」を連想されそうだが、ニンジンは千切りではない。半分に割ったあと斜め薄切りにした。それを炒めて、塩や醤油で味付けしたあと、卵を溶き入れてかき大きく混ぜながら火を通すのだ。甘めが好きなミヨ子だったが、ニンジン自体に甘みがあるので、砂糖を入れることは少なかった。

 バリエーションとして、というより、卵の節約のために、ニンジンに火が通ったころ木綿豆腐を割り入れてから、卵をからめることもあった。白和えと違って、こちらは子供たちにも概ね評判がよかった。

 「概ね」というのは、ニンジンの季節にはどうしても頻繁に作ることになり、季節の初めには喜んで食べていても、回数が重なると反応が微妙になるのだ。とは言え、「飽きたから食べたくない」などと子供たちが言うことは一度もなかった。 

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