文字を持たなかった昭和 八十五(上の子)

 ミヨ子たち一家に小さな家族が加わった。質素だが清潔な産着にくるまれた赤ん坊に乳を含ませながら、何より五体満足で生まれてきてくれたことにミヨ子は安堵していた。

「一姫二太郎というが、うちも一人ずつ授かったね」
集落の共同作業の道路整備から戻り、生まれたての赤ん坊を確かめた夫の二夫(つぎお)は、跡取りの次に女の子が生まれたことを喜んだ。

 舅の吉太郎や姑のハルも家族が増えたことを喜んだが、この家では女の子を育てたことがなく、戸惑いがないわけではなかった。もともと高齢で二夫を授かった吉太郎たちだが、とくに吉太郎はすでに80歳を超えており、女の赤ん坊を前に、どう接していいか困惑しているふうでもあった。

 いちばん反応したのは、上の子で長男の和明である。

 まだ2歳半に届かない年頃。生まれてこの方、贅沢な暮しではないが、跡取りの長男として家族全員から大事にされてきた。家の中での順番で言えば、家長の吉太郎、その息子の二夫、そして和明の順ではあるが、母親はいつも自分の側にいてくれている。もうお乳は飲まなくなっていても、夜寝るときはミヨ子の懐に手を入れて、おっぱいの感触を確かめながら眠りについた。

 ところが、大きかった母親のお腹が急にしぼんだと思ったら、何やらぷよぷよした、自分よりもっと小さい子供――のような生き物――が、母親の傍らに眠っている。「妹」と家族が呼びはじめたそいつは大きな声で泣く。そしておっぱいを吸う。
(オレのおっぱいなのに)
母親の布団に入ろうとするとみんなに止められた。

 「妹」なるものが現れた夜、和明は父親の布団に寝かされた。母親の匂いとまったく違い、居心地が悪い。「母ちゃん」と呼ぶと
「妹ができたんだから、がまんしなさい。兄ちゃんなんだから」
と父親にたしなめられた。

(兄ちゃんて、何だ?)
わけがわからず、不満と不安と不快さから泣き始める。泣いても母ちゃんは来てくれない。泣いて泣いて、やがて疲れて眠ってしまった。

 後年二夫はこの夜のことを振り返り
「妹が生まれた日の晩、和明は泣いてねぇ。泣き疲れて俺の懐に手を入れたまま眠ってしまった。でも、次の日からぴったり泣かなくなった。やっぱり男の子だな、と思ったよ」
と語ったものだった。

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