文字を持たなかった昭和355 ハウスキュウリ(4)計算外、補足 

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることにして、労働力の状況として当時の家族構成などを振り返ったあと、高校卒業を控えた長男の和明(兄)が地元での就職が決まらず、兼業的に家の農業を手伝う見通しが立たなくなるという「計算外」が生じたことを書いた。

 その中で「和明が高3だった昭和52(1977)年という年の地元は就職難だった。もともと少ない受け皿が何かの理由で採用を絞っていたのか、応募者が例年より多かったのか。」と述べたのだが、あとで思い出した。

 就職難はオイルショックの影響だったのだろうか?

 日本で言われるオイルショックは、中東戦争やイラン革命を機に原油の供給が逼迫、原油価格が高騰したことにより生じた経済的混乱を指し、それぞれ1974年(第一次)と1978年(第二次)に発生している。当然石油製品の価格も上昇し、身近なところでは原油の価格や製品が直接影響しないはずのトイレットペーパーの買いだめと品不足が印象的だ(った)。

 昭和40(1965)年の大阪万博を過ぎてもイケイケで怖いものしらず(?)だった日本経済も、オイルショックで冷や水を浴び、ずいぶん景気が悪くなった印象が、小学生だった二三四(わたし)にも強く残っている。

 ただ、それも数年で回復し、「第二次」と呼ばれた頃の混乱はそれほどでもなくて、人間はちゃんと学習するものだ、知恵がつくのだ、と思ったことも覚えている。

 では1977年はどうだったか。1974年にはマイナスになったGDP成長率は、翌年には早くもプラスに転じ、1977年はプラス4%を超えている状況は不況とは言えないだろう。失業率も、高度経済成長期まっただなかで1%ちょっとしかなかった1960年代から70年代前半よりは多いが、1977年は2%だ。

 こういう環境で、地元の求人が少なかったのはなぜだろう。
1.もともと受け皿(就職先)が少なく、たまたまその年は新規採用や欠員が多くなかった。
2.地元で就職したい高卒生が多かった。
3.1と2の複合。

 とは言え、二三四から見て「(兄と)同期のあの人は就職できたんだ」というケースがいくつかあって、自分の兄がその人たちより特段劣っているようにも思えず、むしろ「兄ちゃんのほうが成績よさそうなのに」という感想を持つことすらあったから、まあ、運が悪かったのかもしれない。

 ともかく、ハウスキュウリは中年過ぎの夫婦主体、長男は高校を卒業するまで、高校進学を控えた娘もときどき手伝う、という体制で始めるしかなかった。 

※本項はインターネット上の複数の統計や解説を参考にしました。

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