文字を持たなかった明治―吉太郎42 自立

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。ひと月以上、吉太郎の嫁・ミヨ子(母)の近況などで書きたいことが続き、明治の物語からすっかり遠ざかってしまった。そろそろ再開しよう。

 前妻とその子をほぼ一度に亡くしたあとに、いまで言えばいずれも「バツいち」の中年どうしで結婚した吉太郎とハル(祖母)は、息子の二夫(つぎお。父)とともに親子三人の家庭生活。昭和3(1928)年3月のことである。〈261〉

 翌年にはアメリカ発の世界恐慌が起き、次の年には日本にもその影響が及んで長い不況が訪れることになるのだが、薩摩地方の農村の小さな集落にはどのような影響があったのか、それほどでもなかったのか。「おそらく」だが、豊作・不作に天候の影響を大きく受ける農民は、不作にはそれぞれが防衛策を講じることで、外界からの影響を最小限にとどめる工夫を代々続けてきたことだろう。

 ただ、庶民の生活も明治以降は世界の動きから影響を受け始めたし、昭和に入ったこの頃には、世界恐慌の影響も免れ得なかった。代々受け継いできた「知恵」ではしのげないほどの影響が、どの農村にも外界から押し寄せる時代になっていただろう。それは、昭和の初めに東北地方の農村で多くの若い(幼い)女性が身売りせねばならなかったことからも窺える。

 では鹿児島の農村ではどうだったか。東北と同じような身売りのエピソードは耳にしたことがないが、たんに吉太郎の孫娘・二三四(わたし)の勉強不足かもしれない。

 ともあれ、吉太郎一家は、安泰とは言えないまでもある程度安定した生活を送ってはいた。それを支えたのは、五男の吉太郎が遅い嫁取りをするまで脇目もふらずに働き、買い広げていった自前の田畑や山林であったことは間違いないだろう。

 幸か不幸か子供は長男の二夫ひとりしかいない。しっかり働きさえすれば、親子三人が十分に食べていける以上の「入り」はあった。

 当時としては珍しい小さい家庭で、その気になれば多少の贅沢はできたかもしれないが、吉太郎は贅沢することはなかった。むしろお金を使わないことのほうにこだわった。もっと自分の土地を広げたかったからだ。

 そのモチベーションはどこから来たのか。吉太郎世代はもちろんのこと、息子の二夫の世代もほとんど物故したいま想像するしかないが、農家の五男で、すべては自分の努力と才覚に頼るしかないことを子供の頃から身に染みて感じていたことと無関係ではないだろう。

 吉太郎は小学校すら行っていなかったから〈262〉、働いて収入を得ることは農作業とイコールだった。子供の頃から体になじんだ仕事を一年四季繰り返すのに、学問はいらなかった。学問に親しむ機会があり、ほかの仕事に興味が持てれば、農業以外の道もあるいは考えたかもしれないが、学問で身を立て経済的にも豊かになるような、いまでいうロールモデルは身近にはなかった。

 そのことは、二三四の代になっても続いており二三四の人生の選択にも影響を与えたが、それは機会を改めて述べる。

 つまるところ、農家の五男坊が自立し世間に信用されていくには、まず土地を持つこと、そしてそれを広げていくこと以外にない、という信念のようなものが吉太郎にはあったと思われる。

〈261〉戸籍上でハルとの婚姻・入籍、二夫の出生はたしかにこの時なのだが、実生活とはギャップがあった(はずの)ことについては、「26 婚姻」「27 息子の入籍」で述べている。
〈262〉吉太郎が学校に行っていないことは「12 文盲」で述べた。

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