文字を持たなかった昭和 百八十一(秋の収穫――柿、おまけ)

 昭和の後半、鹿児島の農家の庭先での柿の収穫と、干し柿を作る光景を書いた。この農家とは母ミヨ子の嫁ぎ先、つまりわたしの生家である。

 渋柿は干し柿にするのが常だったが、近隣には同じように渋柿の木があるお宅もあり、渋抜きのテクニックを「交流」することもあった。

 昭和50年代、新たなテクニックがミヨ子の主婦仲間からもたらされた。焼酎に漬けてから、ビニール袋に保存しておく、というものである。漬けると言っても、茶碗などにとった焼酎にヘタのところを少し浸し、数個から数十個をまとめてビニール袋に入れておくのだ。

 焼酎は、夫の二夫(つぎお)の「だれやめ」(晩酌)用に、地元の焼酎蔵で製造される銘柄「七夕」を一升瓶で常備してある。とは言え二夫のために買ってあるものだから――当然だが自分で作れるものでもない――無駄遣いはできない。ミヨ子はふきんに浸してヘタを拭く程度にとどめた。

 浸す量が少なかったせいかどうか、教えてもらった日数どおりに保存したのに、渋はあまり抜けていない気がした。この方法は何回か試したが、少なくともミヨ子の手法としては結局定着しなかった。あとから考えれば、ひと口に渋柿と言っても種類や木の性質、土壌などの微妙な違いから「向き不向き」があったのかもしれない。

 渋を抜かなくても渋柿が食べられないわけでもない。いちばん簡単なのは「熟柿」の状態まで待つことだ。真っ赤になり、枝から落ちそうなほど実も柔らかくなるのを待って、収穫するのだ。この状態だとたしかに甘い。

 ただ、この状態で枝から「もぐ」のは相当高度なテクニックが必要だった。もぐタイミングを外すと地面に落ちてきた。もうひとつ、熟柿は人間だけでなく鳥たちにとっての好物でもあった。しかも「大」のつく。そろそろ熟すか、と思っていると、しらぬ間に鳥に啄まれていることもしばしばだった。

 もっとも、もとは渋い柿のひとつふたつを鳥と競いあうほどヒマでもなかった。なにより柿の木にはたくさんの実が成った。そのうちの何割かを工夫して食べるうちに、残りは熟柿になって庭に落ちる、というのが例年の風景だった。

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