文字を持たなかった昭和 二百三十八(冬の仕事――陳皮づくり)
昭和中期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちの冬の仕事を書いている(ニンジン、高菜、ホウレンソウの収穫など)。本項では「収穫」から少し離れてみたい。
ミヨ子が嫁いだ頃から開墾したミカン山《URL45》では、毎年たくさんのミカンが実った。もちろんそのほとんどは出荷するのだが、出来のわるい実など自分たちで食べた実の残り、というか食べる前に剥いた皮も使うことがあった。それはミヨ子ではなく、明治生まれの姑のハルが実践していた。
ハルは、一代で田畑や家屋敷を買い広げた舅の吉太郎に負けず劣らず、というよりその上をいくほどの倹約家で、食べ物でも着る物でも、器用に手作りした。暮し上手だったとも言える。ハルにかかれば捨てるものはほとんどなかった。まるで江戸庶民の暮しのように。
ミカン山でミカンが穫れるようになるまで自由には食べられなかったミカンも、余るほど穫れるようになると、つい扱いがぞんざいになりがちだった。ハルは剥いた皮を集めてはザルに広げ、冬の日に当てて干した。水分がある程度抜けたら、筵に広げてさらに乾燥させた。
下の子の二三四(わたし)が珍しがって
「ばあちゃん、ミカンの皮を何に使うの?」と聞くと
「喉が痛いときはこれを煎じて飲めばいいよ」と教えてくれた。
「こんなにたくさんいらないんじゃないの?」とさらに聞くと
「余ったら夏までとっておいて燻せば、蚊取り線香に使える」と答えた。
乾燥させたミカンの皮は、ハルが糸に通してひとつなぎにして保存した。こういう「こざこざしたこと」*は、ミヨ子はあまり得意ではなかった。実家で教わらなかったのか、ミヨ子自身あまり興味なかったのか。嫁のそんな様子を、ハルが快く思わなかったことは想像に難くない。
二三四自身は、ハルお手製の煎じ薬を飲んだ記憶はないが、夏、蚊取り線香代わりにミカンの皮を燻したことは覚えている。ミカンの皮には油分が含まれるせいか、燻した煙はけっこう盛大で、蚊を追いやると同時に人間もそのあたりには居られなかった。
干したミカンの皮は「陳皮」といって漢方薬材料になることを、のちに中国と関わるようになってから二三四は初めて知った。中国には陳皮を使った伝統菓子もあり、どこか懐かしい味わいから、薬のほか風味付けにも使われることも学んだ。ハルは漢方薬云々ではなく、単に生活の知恵として誰かに習い実践していたのだろうが、二三四は暮し上手だった祖母の偉大な一面に触れた思いがしたものだった。
*鹿児島弁:こまごまとしたこと。
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