昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)はじめ家族や集落の暮らしぶりについて書いている。しばらく暖房事情について書いてきた(囲炉裏、火鉢、炭、練炭…)。ここいらでテーマを変えよう。
収穫と聞くと秋を連想するが、根菜など冬に収穫するものも多い。そのひとつがニンジンである。
ミヨ子が嫁いだ地元の農家の土地は舅の吉太郎が徒手空拳から一代で買い広げたもので、畑もたくさんあった。篤農家の吉太郎がせっかくの畑を遊ばせておくはずもなく、稲作の傍ら、季節に合わせていろいろな野菜を植え、育てた。
畑の場合、種蒔きや苗植えの前に土を耕す力仕事は、夫の二夫(つぎお)はじめ男衆を中心に行うが、手入れはミヨ子や姑のハルが担うことが多かった。また朝晩の食事に使うため畑や庭の隅にちょっとした野菜を植えておくのも、女たちの仕事だった。総じて、野菜栽培のポイントは、二夫よりミヨ子のほうがよく理解していた。ニンジンもそういった野菜のひとつだった。
そうは言っても、広い畑に植えたニンジンを収穫するのは、やはり家族総出での仕事であり、一本一本手で抜いて収穫した。ニンジンを収穫する機械はなかったし、仮にあったとしてもニンジンばかり作っているわけでもないから、お金を出して機械化するなど考えられなかった。二人の子供が小学校に上がるようになってからは、子供たちもできる範囲で手伝った。
晩秋から初冬、鹿児島でも寒い日が増える。昔――概ね昭和40年代より前――は鹿児島も、というより日本(地球? 北半球?)全体がいまより寒かった。いちばん広い畑は小高い丘の上にあって日当たりがよかったが、その分冬は冷たい風に曝される。日中はともかく、午前中の早い時間や午後日が陰ってからは、寒さをこらえながらの作業だった。
収穫が終わったらそのまま出荷、ではない。
庭の脇に引いた水道から大きなタライに水を張り、水を流しながら土がついたニンジンを洗う。もちろんすぐ食べられるほどきれいに洗いあげるわけではないが、畑から抜いてきた状態で出荷するわけにはいかない。洗ったニンジンをだいたいの大きさに分けてカゴに入れてはじめて、農協に持って行けた。
ニンジンの表面にある細かな根も除去することが求められた。両手に軍手をはめてニンジンをさすりながら洗えば、抜いたばかりの柔らかい根はするりと取れたが、手はほとんど水に漬けた状態になる。ゴム手袋が手軽に買えるようになってからは、農家の主婦仲間がミヨ子に「ゴム手袋の上に軍手をはめれば水の冷たさが和らぐ」と教えてくれたものの、水の中に手を漬けている状態に変わりはなかった。
水道を引く前、水はすべて井戸から汲み上げていた頃はさらに重労働だったのか。あるいは、その頃はまだいろいろな野菜を農協に出すシステムになっていなかったのか。
一日じゅう腰を曲げてニンジンを収穫して帰り、やれやれと思う間もなく、再び中腰でニンジンを洗う、束ねる、カゴに詰める。子供だった二三四(わたし)は、薄暗くなった庭の隅で延々とニンジンを洗いながら泣きたくなった。
作業の先が見えたらミヨ子は手を止めるのだが、休憩するわけではない。残りの作業を終えて家に入ってくる二夫たちのために、晩ご飯を作るのだ。畑も家事も全部できて一人前、農家の嫁はそれでも誰からも褒められなどしないのだった。